【脱獄のカウントダウン】決死の交渉と、皮肉な救済
翌朝、私は震える手で実家に電話をかけた。父の低い声が聞こえた。
「あのさ……しばらくスネ齧りに戻ってもいい……?」
情けなくて、申し訳なくて、それしか言えなかった。けれど、父の返事は迷いのないものだった。
「いいから、すぐに辞めて帰ってきなさい」
後から聞いた話では、電話越しの私の声には生気がなく、今にも消えてしまいそうだったという。
それからすぐ、私は三通の退職願を書いた。一通目は、目の前で破られることを想定して。
案の定、直属の上司は鼻で笑いながらそれを引き裂いた。
「こんなもの書いてる暇があったら仕事をしろ」
二通目を、社長の元へ持っていった。すんなり受け取ってもらえると思った。
だが、コーヒーを配る「善意の顔」はそこにはなかった。
「君に辞められると業務が回らない。責任は取れるの? 損害が出たら請求するけど、払えるの?」
そう言い放ちながら、社長もまた、私の意思を無残に破り捨てた。法的な根拠などない、卑怯な脅しだった。
絶望が、再び私を飲み込もうとした。辞めさせてもらえない。死ぬまでここで働かされるのか。
転機は、皮肉にも「納品」の場で訪れた。
大手企業が納品先。相手方の社長が姿を現したとき、私は社会人としての最後の矜持で、挨拶をしようと立ち上がった。だが、膝に力が入らない。視界が急速にブラックアウトし、私はそのまま、会議室の床に崩れ落ちた。
「大丈夫です、大げさにしないでください! ただの寝不足ですから!」
慌てて体裁を取り繕おうとする我が社の社長の声が、遠くで聞こえる。だが、相手の社長はそれを一喝し、社内に常駐している医師を呼び寄せた。
「これは、ただの寝不足ではない。極度の過労状態で衰弱している。これ以上働かせるのは命に関わる」
医師の冷徹な、そして慈悲深い診断。大手企業の専属医から「命の危険」を公に突きつけられ、客先の社長の冷ややかな視線を浴びて、わが社の社長はついにぐうの音も出なくなった。
ここが客先であろうと関係ない。私は、懐に忍ばせていた「三通目」の退職願を、納品先の社長が見ている目の前で差し出した。
震える手で受け取った社長の顔を、私はもう見ていなかった。大手企業の重厚な扉の向こうに、ようやく「人間」に戻れる出口が見えた気がした。
構成:高井優希
編集:Mini=G


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