その日まで、私は自分なりに、誠実に、ちゃんと頑張ってきたつもりだった。
朝は誰よりも早くデスクにつき、
頼まれごとは一度も断らず、
ミスをすれば、倍の速さで取り返した。
飲みの誘いも、週末の旅も、すべて「いつか」に先送りした。
「今は踏ん張りどきだから」と、自分に言い聞かせるのが癖になっていた。
三ヶ月、心血を注いで準備した大きなプレゼンがあった。
支店の命運を左右するかもしれない企画。
本社の役員も並ぶ、年に一度の重要な舞台。
アサインされたとき、胸の奥に小さな、けれど熱い灯がともった。
――ここで、ちゃんと光れ。
資料は何度も練り直し、完璧に仕上げた。
数字の裏付けも、ロジックの隙も、もうどこにもない。
想定質問は三十項目。どんな角度からのツッコミも、打ち返せる自信があった。
前日の夜、何度も通しでリハーサルを行い、
高ぶっていく高揚感の中で、ようやく眠りについた。
そして、当日。
会議室の空気は、冬の朝のように冷たく張り詰めていた。
ノートPCをプロジェクターにつなぐ。
――よし。
壁に映し出された最初のスライドを見て、深く息を吐いた。
順調だった。
声のトーンも、指先の動きも、練習通り。
役員たちの表情が、姿勢が、わずかにこちらへ乗り出すのがわかる。
手応えを確信に変え、三枚目のスライドに切り替えた、その刹那。
ぷつん。
視界から、光が消えた。
一瞬、何が起きたのか…脳が判断を拒絶した。
ざわ……と、会議室の沈黙が不穏に揺れる。
プロジェクターの不具合か。いや、違う。
目の前のPCの画面が、吸い込まれるような黒さに沈んでいる。
「……あれ?」
震える指で、電源ボタンを押す。
反応がない。
バッテリーは昨夜、満タンにしたはずだ。
いや、確かにした。
もう一度、強く押し込む。
けれど、愛機は沈黙を貫いたまま、目覚める様子はない。
頭の中が、真っ白なノイズで埋め尽くされる。
「電源ケーブルは?」
隣にいる上司が、焦りを含んだ小声で囁いた。
――忘れた。
目の前の机には、コンセントが口を開けている。
でも、そこへ繋ぐための「糸」がない。
昨夜、最後の練習を終えて満足げに片付けたとき、
デスクの上に置き去りにしてきた風景が、鮮明にフラッシュバックした。
会議室の温度が、一気に氷点下まで下がっていく。
「資料は、紙で用意してあるか?」
――紙では用意していない。
“完璧”だと思っていた私の準備は、すべて起動しない箱の中に閉じ込められている。
役員のひとりが、ゆっくりと時計を見た。
その秒針の音が、やけに大きく耳に障る。
「……口頭で、続けられるか?」
上司の問いに、私は必死に口を開いた。
けれど、あんなに繰り返したはずの言葉が、霧のように消えていた。
指先から滑り落ちた糸の先を、どうしても見つけられない。
喉の奥が、カラカラに乾いてしまいひりつく。
「……申し訳ありません。
機材トラブルにより、続行が困難です」
吐き出した自分の声が、どこか遠い宇宙から聞こえた気がした。
結局、プレゼンは中断。
後日、別の担当がリカバーすることになった。
私の三ヶ月は、
“途中まで”のまま、二度と再生されることはなかった。
帰り道、電車の窓に映る自分の顔は、
病人のように青白く、ひどく情けないものだった。
あんなに我慢して、
あんなに準備して、
あんなに自分を追い込んできたのに。
負けた理由は、能力の欠如でも、努力の不足でもなかった。
ただ――
電源ケーブルを、忘れた。
たったそれだけの、あまりに幼稚な理由。
笑うことすらできない。
怒りをぶつける相手もいない。
誰かに厳しく叱責されるよりも、自分自身で自分を軽蔑するほうが、ずっと、ずっときつかった。
帰宅し、部屋の隅に鞄を放り出す。
中には、完璧なデータを抱えたまま、冷たくなったPCが入っている。
その夜、私は何ひとつ手に付かなかった。
心の灯は、まだ消えてはいない。
でも、あの場所で、私は光れなかった。
どれほど積み上げた努力も、ほんのわずかな「抜け」が、一瞬でゼロにしてしまう。
その残酷な重みを、思い知った夜だった。
それから私は、
大事な日の前夜には、必ず三つの確認を欠かさない。
データ。
紙の資料。
そして、電源ケーブル。
あの夜の、あの顔を二度と繰り返さないために。
光れなかった悔しさは、きっと一生、私の澱として残るだろう。
でも――
あの日、一度光を失いかけたからこそ、
今の私は少しだけ慎重に、そして丁寧に、
自分が放つ光の向きを確かめられるようになった。
……それでも、ふと思うのだ。
あの三ヶ月のすべてが、
たった一本のケーブルで救えたはずだったのだとしたら。
やっぱり、ちょっと。
いや、かなり、きついよね。
構成:高井優希
編集:灯-AkarI-


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