四月の終わり、
私はまだ「新人」と呼ばれることに、少しだけ甘えていた。
配属されて三週間。
名刺交換も、電話応対も、ようやく板についてきたころ。
そんなある日、私は小さな“光”を任された。
「次のキャンペーン、若い層を取り込みたいんだよね」
会議室で上司が言った。
「お食事券プレゼントとか、どうだろう」
それ、いいですね。
思わず身を乗り出した私に、上司は笑った。
「じゃあ、まずは社内で協力店舗の情報を集めてみようか。
一斉メールで下調査をかけてくれる?」
初めて任された、ちょっと大きな仕事。
胸の奥に、ぽっと灯がついた。
――よし、やるぞ。
私はデスクに戻り、メールを作成した。
件名:下調査のお願い
本文:現在、お食事券の調査中です。声を掛けさせていただきました際には、ご協力をお願いいたします。
何度か読み直した。
変なところはない。
誤字もない。たぶん。
送信ボタンを押した瞬間、
小さな達成感が胸を満たした。
それから十数分後。
内線が鳴った。
「はい、営業課です」
受話器の向こうの声は、妙に低く硬かった。
「つい先ほどのメールの件、どういうこと?」
「え?」
「“汚職事件の調査中”って、どういう意味?」
――え?私、何か間違えた?
低く硬い声に、私が何かミスをしてしまったことは想像に難くない。
血の気が引く、というのは、こういうことを言うのだろう。
私は、震える指で送信済みメールを開いた。
そこには、はっきりと書かれていた。
現在、汚職事件の調査中です。声を掛けさせていただきました際には、ご協力をお願いいたします。
……。
変換ミスだった。
お食事券(おしょくじけん)が、
汚職事件(おしょくじけん)になっていた。
読みは同じ。
でも、意味は天と地。
気付くと、社内はざわついていた。
「え、何があったの?」
「うちの会社で汚職?」
「誰が?」
そして最悪なことに、そのメールは本社の上層部にも転送されていた。
「支社で汚職事件の調査が進んでいるらしい」
そんな話が、本社でもあっという間に広がった。
私は上司に呼ばれた。
会議室の空気は重い。
「……本社から連絡があった。」
「はい……」
耳がキーンとしている。
しかし、上司の深いため息はよく聞こえた。
「すぐ訂正メールを出そう。
件名に“【重要】訂正”とつけて」
自席に戻ると、震える指で、私は再びメールを打った。
件名:【重要】先ほどのメールについて訂正
本文:誤って「汚職事件」と記載しましたが、正しくは「お食事券」です。
誤解を招く表現となり、大変申し訳ありませんでした。
今度は本社の上層部も宛先に追加して、送信。
…数分後、本社から私に直接連絡が入った。
結果から言えば、誤解はすぐに解けた。
電話口の向こうで、上層部の方は言った。
「食事券だったのか。そんな気もしたが、びっくりしたよ」
そして、ふっと笑った後。
「まあ、気をつけなさい」
そう言って、電話が切れた。
救われた気持ちと、
それ以上の恥ずかしさが、胸に押し寄せた。
その後、上司にこっぴどく叱られた。
「送信前は三回読め。
“自分は間違える生き物だ”と思え」
ぐうの音も出なかった。
その日の帰り道、
私はやけに静かな夕方の風の中を歩いた。
自分の灯は、間違った方向に光ってしまった。
よかれと思って、
頑張ろうとして、
でも、少しだけ焦っていたのかもしれない。
家に帰り、何度もメール文面を思い出す。
たった一単語の違い。
けれど、その一単語が、
会社全体を揺らしかけた。
それから私は、
送信ボタンを押す前に、必ず深呼吸をするようになった。
声に出して読む。
指でなぞって確認する。
あの日の出来事は、
私の中の灯の向きを、少しだけ整えてくれた。
光は、強ければいいわけじゃない。
ちゃんと、照らしたいものを照らせているか。
それが大事なのだと、
新人の私は、身をもって知った。
今でも、ときどき思い出す。
あの一斉メールの件名を。
そして、少しだけ笑う。
――光り方を、間違えないように。
構成:高井優希
編集:灯-AkarI-


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