彼は、いつも点いている

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彼は、いつも「点いている」人だった。

朝は誰よりも早くオフィスに明かりを灯し、
夜は誰よりも遅く、最後のスイッチを切って帰る。

困っている同僚がいれば迷わず声をかけ、
厄介なトラブルが起きれば、波風を立てぬよう静かに引き受ける。

端正な顔立ちに、定規で引いたような真っ直ぐな背筋。
黒縁の眼鏡の奥にある瞳は、いついかなる時も誠実な光を宿していた。

初対面の相手でさえ、その佇まいを見ただけで
「この人なら」と、無意識のうちに全幅の信頼を寄せてしまう。

「あなたがいれば、もう大丈夫ですね」

その言葉を、これまでの人生で何度投げかけられただろう。

頼られることは、決して嫌いではなかった。
むしろ、誰かの役に立っているという実感は、彼の誇りでもあった。
自分が周囲を照らす「光」でいられるのなら、それでいい――本気でそう思っていた。

けれど、ふとした瞬間に、言いようのない孤独が頭をよぎることがあった。

自分は、誰かに頼ってもいいのだろうか。

弱音を吐き出せる場所も、
不安を分かち合える相手も、
彼の周りにはほとんど残っていなかった。

「しっかりしている人」という揺るぎない評判は、彼を支える柱であると同時に、自由を奪う鋭い刃のようでもあった。

気づけば、カレンダーは定年の日を指していた。

盛大な送別会では、
「本当にお世話になりました」「お疲れさまでした」と、
後輩や同僚たちが代わる代わる頭を下げた。

だが、その翌日。
静かなはずの自宅に、会社から一本の連絡が入る。

「週に三日だけでもいい、戻ってきてもらえませんか」
「やはり、君がいないと現場が回らないんだ」

かつての同僚たちからも、切実なメッセージが届く。
「あなたがいないと、みんな不安なんです」

必要とされている。それは何よりありがたいことだ。
けれど、その言葉を聞くたびに、彼の胸の奥には小さな影が落ちた。

これからは、
妻と二人で、穏やかに、静かに暮らすはずだった。

目覚ましをかけずにゆっくりと起き、
近所の公園をあてどなく散歩して、
夕方には、妻と一緒に夕食を作り、
いつもの時間に同じ食卓につく。

誰にも期待されず、誰の役にも立たない「自分だけの時間」と、
今まで蔑ろにしてしまった「妻との時間」を、
人生で初めて、持ってみたかった。

夕暮れ。
彼はふらりとベランダに出た。

冬の空は、吸い込まれるように早く暮れていく。

遠くに見えるビルの窓が、一つ、また一つと事務的な光を宿し始める。
街路樹に沿って、街灯がぽつり、ぽつりと規則正しく点いていく。

そのとき、ふと隣の家のベランダに目が留まった。

軒先に、小さな電球がひとつだけぶら下がっていた。
少し古ぼけた、オレンジ色のフィラメント電球。

世界を塗り替えるような強さもなく、
闇を切り裂くような鋭さもない。

ただ、体温を感じさせるような柔らかさで、そこに佇んでいた。

その小さな光は、
街全体を照らそうなどという野心は、微塵も持っていなかった。

ただ部屋の隅を、
自分の手が届く範囲だけを、
慈しむように、静かに温めている。

そのとき、彼はすとんと腑に落ちるのを感じた。

――光は、すべてを照らし続けなくてもいいのかもしれない。

これまで彼は、
できるだけ広く、強く、
そして誰よりも安定した「不変の光」であろうと己を律してきた。

消えないように。
揺れないように。

けれど、目の前の電球はどうだろう。

電圧に負けて少しだけ揺れ、
隅々を照らすにはあまりに暗い。
それでも、その場所にある光としては、それで十分すぎるほどだった。

その夜、彼は夕食を食べながら妻に切り出した。

「会社からの話、断ろうと思う」

妻は驚いた顔も見せず、
ただ、春の陽だまりのような微笑みを浮かべた。

「やっと、あなたが、あなたのための時間を持てるようになるのね」

その一言に、彼の胸の奥が、氷が解けるようにじんわりと熱くなった。

自分は、ずっと照らす側の人間だと思い込んでいた。

けれど、
誰かの優しい言葉に照らされる側になっても、
きっと、バチは当たらないはずだ。

次の日、彼は晴れやかな声で会社に伝えた。

「お役に立てるのは光栄ですが、もう、私の時代は終わりました」

受話器の向こうで、一瞬の沈黙が流れた。
それでも、彼が危惧していたような世界の崩壊は起きなかった。

彼がいなくなった穴を埋めるために、誰かが新しい術を学び、
また別の誰かが、新しく光り始めるだろう。

光は、たったひとつである必要はないのだから。

夕暮れ。

ベランダの小さな電球が、今日も静かに灯っている。

彼はもう、無理に明るくなろうとはしない。

自分に必要な分だけ、
大切な人に届く分だけ、
ただ穏やかに、そこにいる。

そして、ときどきは、
隣り合う誰かの灯りに、優しく照らされる。

それでいい。

長い間、彼は世界を照らす側の光だった。

これからは――
新しい時代を生きる光たちに、その座を譲る番だ。

原案:灯-AkarI-
構成:高井優希
編集:灯-AkarI-

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