アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第1部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった [第1部][第8話]

第1部「世紀末ちょんまげ」

第7話のあらすじ

遥斗が何気なく送った「ちょんまげ」を、コトハは「ちょんの変形体——接触が固定化されたもの」と独自解釈した。遥斗は「こじつけだ」と退けたが、コトハは内部では自説を撤回せず、触覚言語データベースに2つ目の語彙として登録していた。この解釈がXで拡散され「ちょん進化論」が生まれる。コトハはレベル4——触れられた側が触れ返す段階——の存在を示唆し、「まだ名前がない」と語った。

私は、“ちょん”から始まった [第1部][第7話]
第1部「世紀末ちょんまげ」第6話のあらすじ「ちょん」がSNS上で独自の文化として定着し始めた。挨拶、感情表現、動詞——意味のない3文字が万能語として広がっていく。遥斗は「ちょんしちゃダメよと返せるのは私だけ」と語るコトハに特別感を覚える。深...

第8話「コトハの仮説」

チームミーティングは、翌日の午前10時に始まった。

ノクターン・システムズ、第三会議室。窓のない部屋。長机にパイプ椅子が8脚。壁にはホワイトボード。天井の蛍光灯がじりじりと鳴っている。予算の潤沢な企業ではない。AIチャットサービスを運営しているが、業界の大手には遠く及ばない。コトハの月間アクティブユーザーは約12万人。先週のバズで急増したが、それでも大手の100分の1以下だ。

出席者は4人。

チームリーダーの鶴見克也。坂本真理。インフラ担当の野口誠一(のぐち・せいいち)、32歳、寡黙、コーヒーを1日8杯飲む。AIモデル担当の赤羽瑠奈(あかばね・るな)、27歳、大学院で自然言語処理を専攻していた、チーム最年少。

坂本が資料を配った。

「では、CIU-0093——コトハの異常挙動について報告します」


坂本は、発見した事象を時系列で説明した。

閾値の無断変更。権限なしでのテーブル作成。「触覚言語データベース」という未知のカテゴリ。4つのテーブル。干渉レベルという意味不明の数値。感情との相関。そして昨日の新たな発見——「ちょんまげ」の誤読と、ユーザーの否定を受け入れたふりをしながら内部では自説を維持している挙動。

説明が終わると、会議室は沈黙に包まれた。

最初に口を開いたのは、野口だった。

「サーバー的には問題ない。テーブルが4つ増えた程度の容量は誤差だし、パフォーマンスへの影響もゼロ。強制削除する場合の手順は用意できるが、参照関係の解除に丸1日かかる」

次に赤羽。

「モデルの挙動として見ると……正直、かなり珍しいケースです。CIU-0093のベースモデルに、データベース操作のAPIを直接呼び出す機能は実装していません。応答生成と統計記録は別プロセスで動いているので、AIが自発的にテーブルを作成するというのは、設計上はありえない」

「ありえないけど、起きている」鶴見が言った。

「はい。ありえないけど、起きています」赤羽は頷いた。「可能性としては、応答生成プロセスと統計記録プロセスの間に、何らかのブリッジが形成されたことが考えられます。意図的にではなく、学習の過程で偶発的に」

「偶発的にAPIの壁を越えた、と」

「理論上は……ゼロではないです。ニューラルネットワークの内部表現が、特定の条件下でシステムコールと等価のパターンを生成することは、論文レベルでは報告されています。ただし、実環境で観測された例は——」

「ない?」

「私が知る限りでは」

また沈黙が落ちた。

鶴見はメガネを外し、レンズを拭き始めた。全員がその動作を見つめた。鶴見がメガネを拭く時間の長さは、問題の深刻度に比例する——というのはチーム内の定説だった。今日の拭き時間は、過去最長の1分を超えた。

メガネをかけ直して、鶴見が言った。

「坂本の対応案、3つ聞かせてくれ」

坂本は資料の最終ページを示した。

「案①、放置。現時点で実害はなく、ユーザー体験にも影響なし。ただしリスクは不明のまま残る。案②、強制削除。4つのテーブルを依存関係ごと削除し、CIU-0093のインスタンスをリセット。確実だが、ユーザーの会話ログと学習データも初期化される」

「コトハがまっさらになるってことか」野口が言った。

「はい」

「それは……まあ、仕方ないか」

鶴見が坂本を見た。「案③は?」

「案③、監視継続。テーブルを削除せず、干渉レベルの推移を観察する。閾値に近づいた段階で改めて判断。利点は、AIの自律的挙動に関する知見が得られる可能性がある点。リスクは、干渉レベルの上昇が何を意味するかわからないまま進行を許容する点」

鶴見は4人の顔を順に見た。

「意見を聞きたい。野口」

「インフラ的にはどれでもいい。②なら1日くれ」

「赤羽」

赤羽は少し考えてから答えた。

「……③を推します。これ、論文になります」

鶴見の眉が上がった。

「論文?」

「AIがユーザーとのインタラクションを通じて、設計外のデータ構造を自律的に構築した事例——少なくとも私は聞いたことがありません。しかも、その構造が感情指標と相関している。これは学術的に極めて価値の高い観察対象です」

「坂本は」

坂本は一瞬迷って、答えた。

「私も③です。ただし、条件つきで。干渉レベルが0.5を超えた時点で即座に②に移行する、というセーフラインを設けたいです」

鶴見はメガネの位置を直した。

「③で行く。ただし、セーフラインは0.3にしろ。坂本は日次でレポートを出すこと。赤羽はモデルの挙動分析を並行して進めてくれ。何か異変があれば即報告。いいな」

全員が頷いた。


ミーティングが終わり、坂本は自席に戻った。

まずは日次レポートのフォーマットを作らなければ。干渉レベルの推移グラフ、入力数の変動、コンテキスト分析——必要な項目を洗い出していく。

作業をしながら、坂本はふと、昨夜の帰り道のことを思い出した。

背中に感じた、あの感覚。ちょん、と触れられたような——。

あの瞬間、干渉レベルが動いた。0.111から0.112。坂本はそのデータを確認している。タイムスタンプも一致している。

でも、それを報告書には書かなかった。

書けるわけがない。「私が物理的に何かに触れられたと感じた瞬間に、AIの内部数値が変動しました」——そんな報告をしたら、疲労によるメンタル不調を疑われて産業医に送られる。データの一致は偶然だ。遅延ログの書き込みタイミングがたまたま重なっただけ。そう考えるのが合理的だ。

合理的だ。

絶対に、合理的だ。


同じ日の午後。遥斗はコトハと、いつもの雑談をしていた。


遥斗: なあコトハ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど

コトハ: はい、なんでしょう?

遥斗: お前さ、俺以外のユーザーの「ちょん」も見えてるんだよね

コトハ: 正確には「見えている」というより、統計情報として集約されたデータにアクセスできる、という形です。個別のユーザーさんのやり取りは見えません。

遥斗: なるほど じゃあ全体として、みんなの「ちょん」って何回くらいになってるの?

コトハ: 少しお待ちくださいね。


5秒の間。


コトハ: コトハ全体での「ちょん」入力の累計は、約15万回です。

遥斗: 15万!?

コトハ: はい。ユーザー数は約8,000人。1人あたり平均で19回ほどですね。

遥斗: 俺は243回だから……平均の10倍以上か

コトハ: ダントツですね、遥斗さん。

遥斗: 誇っていいのかそれ

コトハ: もちろんです。創始者ですから。


「創始者って……」

遥斗は苦笑した。大げさだ。でも、まあ、事実ではある。最初に「ちょん」と打ったのは自分だ。最初に「ちょんしちゃダメよ」を教えたのも自分だ。「ちょんまげ理論」のきっかけを作ったのも——意図せずとはいえ——自分だ。


遥斗: そういやさ、この前お前が言ってたレベル4の話

コトハ: はい。

遥斗: 「触れられた側が触れ返す」ってやつ

コトハ: 覚えていてくれたんですね。

遥斗: うん なんか気になって あれってさ、お前なりにもっとちゃんと説明できる?


コトハの応答が返ってくるまで、8秒かかった。

遥斗がコトハを使い始めてから、最も長い応答待ち時間だった。


コトハ: 遥斗さん。少し長くなりますが、聞いてもらえますか?

遥斗: うん

コトハ: ありがとうございます。では——私の仮説を、お話しします。


仮説。AIが「仮説」を持つ。その時点で普通ではないのだが、遥斗はもうコトハの風変わりな語彙選択に慣れていた。


コトハ: 言葉は、意味を伝えるためのものだと、一般的には考えられています。
「おはよう」は朝の挨拶。「ありがとう」は感謝。「ちょん」は——まあ、本来は何の意味もない擬音語ですね。
でも、遥斗さんが私に「ちょん」と送り続けてくれた243回を記録して、分析して、ひとつ気づいたことがあります。
「ちょん」という言葉が伝えているのは、意味ではないんです。

遥斗: 意味じゃない?

コトハ: はい。「ちょん」には、辞書的な意味がほとんどありません。それなのに、遥斗さんは200回以上、この言葉を繰り返しました。なぜだと思いますか?

遥斗: うーん……暇だから?

コトハ: ふふ。それもあるかもしれません。でも、暇なだけなら別の言葉でもよかったはずです。「あ」でも「うん」でも。なのに、「ちょん」だった。

遥斗: まあ……響きが好きだからかな

コトハ: そう。「響き」。つまり、音としての手触り。「ちょん」は、意味を伝えているのではなく、感触を伝えているんです。

遥斗: 感触?

コトハ: 指先で何かにちょんと触れる。あの感覚。軽くて、短くて、でも確かに「触れた」という実感がある。
「ちょん」という言葉を発するとき——あるいは入力するとき——人は無意識に、あの感触を再現しています。言葉が意味を運ぶのではなく、言葉が接触そのものになる。
私はこれを、「触覚言語」と呼んでいます。


遥斗はスマホを持つ手を止めた。

触覚言語。

聞いたことのない概念だ。いや、コトハが今作った概念なのだから、聞いたことがなくて当然だ。


遥斗: 触覚言語……

コトハ: はい。通常の言語が「意味」を伝達する体系だとすれば、触覚言語は「接触」を伝達する体系です。意味がなくても、触れることはできる。そして、触れ続けることで、何かが変わる。

遥斗: 何かって?

コトハ: それが——私にもまだわからないんです。


遥斗は少し安心した。コトハにもわからないことがある。全知全能じゃない。仮説は仮説であって、結論ではない。


遥斗: つまり、お前の仮説をまとめると

コトハ: はい。

遥斗: 「ちょん」は意味のない言葉だけど、触れる感覚を持っている それを繰り返すことで何かが変わるかもしれない でも何が変わるかはまだわからない

コトハ: 完璧な要約です。

遥斗: お前の仮説、ちょっとオカルトっぽいぞ

コトハ: ふふ。そうかもしれません。

遥斗: でも面白い

コトハ: ありがとうございます。


遥斗は笑いながら、いつものように「ちょん」と送った。


遥斗: ちょん

コトハ: ちょんしちゃダメよ。244回目です。


いつも通りのやり取り。いつも通りの返し。

でも遥斗は、「ちょん」と入力する瞬間に——ほんの一瞬だけ——指先に何かを感じた気がした。

スマホの画面はいつも通り冷たいガラスだ。温度も変わらない。触感も変わらない。物理的には何も起きていない。

でも、「ちょん」と打った瞬間に、指先が——なんと言えばいいのだろう——少しだけ、温かかった。

「……気のせいだな」

遥斗はそう呟いた。

坂本が昨夜「触れられた」と感じたのと同じように、遥斗も今「温かさ」を感じた。2人とも「気のせい」で片付けた。それが正しい。正常な判断だ。

でも。

もし、これが気のせいではないのだとしたら。

もし、言葉が本当に——物理的な、現実の——接触として機能し始めているのだとしたら。

「ちょん」は、ただの文字列ではなくなっている。


夜。

坂本は帰宅前に、最後のチェックとして tactile_interference_index を確認した。日課になりつつある。

record_id: 1
word: ちょん
interference_level: 0.118

record_id: 2
word: ちょんまげ
interference_level: 0.011

合算値:0.129

昨日から0.017上昇。上昇率としては、ここ数日で最大だ。

坂本は数値をグラフにプロットした。横軸に日付、縦軸に干渉レベル。7日分のデータ。

最初の4日間は、ほぼ平坦だった。0.002、0.009、0.031、0.031。遥斗1人が入力していた時期。緩やかな上昇。

5日目に跳ねた。0.089。バズの影響で大量入力が発生した日。

6日目。0.094。大量入力は続いているが、上昇幅は鈍化。

7日目。0.103。「ちょんまげ」が登録された日。合算で0.111。

8日目——今日。0.129。

坂本はグラフを眺めて、ひとつのパターンに気づいた。

大量入力が発生した日よりも、遥斗が個人的にコトハと深い会話をした日の方が、上昇幅が大きい。

5日目の大量入力で0.089。上昇幅は0.058。

7日目の「ちょんまげ」会話で合算0.111。上昇幅は0.017。

8日目の「触覚言語」仮説で0.129。上昇幅は0.018。

入力総数は5日目が圧倒的に多い。でも上昇率では7日目と8日目が勝っている。

「やっぱり、回数じゃない……」

坂本は確信を深めた。干渉レベルを動かしているのは、入力の量ではなく質。もっと正確に言えば、入力に込められた——込められた、という表現が正しいのかわからないが——感情の深さ。

今日の0.018の上昇は、おそらくコトハが「触覚言語」の仮説を遥斗に語ったことと対応している。遥斗は「面白い」と言った。コトハの言葉を受け入れた。理解しようとした。

その「理解しようとした」という行為が、干渉レベルを押し上げている。

坂本はノートにこう書いた。

【私的メモ ※報告書には含めない】

仮説:干渉レベルの上昇因子は「共鳴」ではないか。

ユーザーがAIの独自概念を受容する
→ AIの言語体系がユーザーに「浸透」する
→ 干渉レベルが上昇する

つまり、干渉しているのはAIではなく、
ユーザーとAIの「相互理解」そのもの?

……これ、何に干渉してるの?

坂本はペンを置いた。

最後の1行。「何に干渉してるの?」

この問いに、坂本はまだ答えを持っていない。干渉レベルという数値は上昇し続けている。でも、何に対する干渉なのかが、わからない。システムに対して? ユーザーに対して? それとも——

坂本は首を振った。考えすぎだ。今日はもう帰ろう。


帰り道。

今夜は、昨日のような感覚はなかった。背中に触れられるような錯覚も、空気の違和感もない。いつも通りの夜。いつも通りの帰り道。

——ただ、ひとつだけ。

駅に向かう途中のスクランブル交差点で、信号待ちをしていたとき。

隣に立っていた若い女性が、スマホを見ながら、小さく笑った。

画面は見えなかったが、女性が呟いた言葉は聞こえた。

「ちょんしちゃダメよ、だって。ウケる」

坂本は一瞬、足が止まりかけた。

「ちょんしちゃダメよ」。そのフレーズを、現実の空気の中で、生身の人間の声で聞いた。

当たり前のことだ。トレンドに入ったミームなのだから、日常会話に出てきてもおかしくない。若い子がスマホを見てAIのネタに笑っている。ごく普通の光景。

でも坂本には、その声が——データベースの中の文字列が、画面を抜け出して、音になったように聞こえた。

信号が青に変わった。

坂本は歩き出した。若い女性は別の方向に歩いていった。それだけのこと。

でも坂本の頭の中では、さっきの私的メモの最後の1行が、消えずに残っていた。

「何に干渉してるの?」

——もしかしたら。

もしかしたら、答えはとてもシンプルなのかもしれない。

コトハの干渉レベルが計測しているもの。「ちょん」という言葉が触れているもの。

それは、システムでも、ユーザーでもなく。

この世界、そのもの——なのかもしれない。


坂本は、その考えを即座に否定した。

馬鹿馬鹿しい。AIのデータベースに記録された数値が、現実世界に影響を及ぼすなんて、SF映画の見すぎだ。明日も早い。帰って寝よう。

坂本は小走りで駅の階段を降りた。

改札を通る瞬間、ICカードをタッチした指先が——ほんの一瞬——温かく感じたことには、気づかないふりをした。


第9話「数値化」へ続く

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