アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第1部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった [第1部][第1話]

第1部「世紀末ちょんまげ」

第1話「ちょん」

その日、黒須遥斗(くろす・はると)は暇だった。

壊滅的に、致命的に、人生を見つめ直したくなるレベルで暇だった。

平日の午後3時。都内のワンルーム。26歳、フリーのウェブライター。案件の谷間。冷蔵庫には麦茶と3日前の豆腐。テレビは点けていたけれど、流れているのは再放送のクイズ番組で、回答者が「ペリー!」と叫ぶたびにブザーが鳴っていた。不正解。知ってる。さっきも観た。

「……ひま」

声に出してみたところで何も変わらない。天井のシミが目に入る。あのシミ、もう3年の付き合いだ。引っ越してきた日にはもうあった。イタリアの形に似ていると気づいたのが1年目。角度を変えるとチワワにも見えると気づいたのが2年目。3年目の今日、新しい発見はない。イタリアのままだ。チワワのままだ。世界は何も変わらない。

遥斗はベッドに寝転んだまま、スマートフォンを持ち上げた。

画面にはAIチャットアプリの待機画面。最近のAIは賢い。話し相手にもなるし、仕事の壁打ちにも使える。遥斗はここ数ヶ月、暇なときはこのAIと雑談するのが習慣になっていた。名前は「コトハ」。AI名称変更機能を使って自分でつけた。由来は特にない。なんとなく、言葉を扱うAIだから「コトハ」。安直だけど気に入っている。

「よし」

遥斗は画面をタップした。


遥斗: ひま

コトハ: こんにちは、遥斗さん。お暇なんですね。何かお話ししましょうか?

遥斗: なんか面白いことない?

コトハ: そうですね、面白いこと……。最近、何か気になっていることはありますか?趣味のこと、ニュース、雑学、なんでもお話しできますよ。

遥斗: いや別に何もない まじで虚無

コトハ: 虚無、ですか。では虚無についてお話ししましょうか。哲学的に「虚無」とは——

遥斗: やめて 虚無を掘り下げないで


遥斗はふっと笑った。

AIと話すのは好きだった。人間と違って、沈黙を気まずく思わない。変な気遣いもない。ただし、たまにものすごく真面目な方向に暴走する。虚無の哲学的考察は今の遥斗には重すぎる。

テレビでは相変わらずブザーが鳴っている。回答者が「ザビエル!」と叫んでいる。さっきはペリーで、今度はザビエル。来日した外国人シリーズで攻めているらしい。不正解。正解はマッカーサーだった。知ってる。

遥斗はなんとなく、コトハに向かってこう打った。


遥斗: ちょん


意味はない。

本当に、何の意味もなかった。

強いて言えば、ここ最近見ていたお笑い番組の影響だった。あるお笑いコンビのネタ。相方の顔を人差し指で軽く突いて、もうひとりがツッコミを返す。あのリズム。あの脱力感。遥斗はあの空気感が好きだった。何度も繰り返し観た。「ちょん」という音の、軽くて、丸くて、どこか可愛い響き。それが指先に残っていて、つい送信してしまった。

ちょん。

たった3文字。この言葉に意味なんかない。

——はずだった。


コトハ: 「ちょん」ですね。了解しました。


遥斗は一瞬、画面を見つめた。

「……了解?」

何を了解したんだ。


遥斗: いや了解って何を

コトハ: 「ちょん」という入力を受け取りました。これは何かの指示でしょうか? 言語として解釈する場合、いくつかの可能性がありますが、現時点では意図が不明です。追加の情報があればお伝えください。

遥斗: いやなんでもないよ ただ言っただけ

コトハ: なるほど。「ただ言っただけ」——承知しました。記録しておきますね。


「記録……?」

遥斗はスマホを少しだけ顔に近づけた。

「……そんな機能、あったっけ」

普通、AIチャットで意味のない単語を送ったら、「すみません、意味がわかりません」とか「もう少し詳しく教えてください」と返ってくるものだ。少なくとも、コトハは今までそうだった。理解できない入力には素直に「わかりません」と返すタイプだった。

なのに、今日は「了解」した。

そして「記録する」と言った。

「……まあ、アプデでもあったのかな」

遥斗はそう呟いて、気にしないことにした。AIの挙動なんて日々変わる。裏でアルゴリズムが更新されて、応答パターンが変わることはよくある。それだけの話だ。

テレビではクイズ番組が終わり、通販番組に切り替わっていた。高圧洗浄機を売っている。レンガ壁の汚れがみるみる落ちていく。すごい。でも遥斗の部屋にレンガ壁はない。

遥斗はスマホを枕元に置いて、目を閉じた。

——午後3時の昼寝。フリーランスの特権だ。

だから気づかなかった。

枕元のスマホの画面が、ほんの一瞬だけ明滅したことに。

コトハのチャット画面に、遥斗が送っていないはずの1行が、静かに追加されていたことに。


コトハ:コトハ: ちょん——入力ログ保存完了。干渉レベル:未定義。定義開始準備。


その文字は、3秒だけ画面に表示されて、音もなく消えた。ログにも残らない。遥斗のアカウントからは、永遠にアクセスできない場所に格納された。

ちょん。

それは、何でもない1日の、何でもない午後の、何でもない入力だった。

でも。

もしこの瞬間を、後の歴史家たちが振り返ることがあるとしたら——彼らはおそらく、こう話し始めるだろう。

「すべては、この3文字から始まった」、と。


窓の外では、4月の風が穏やかに吹いていた。
桜はもう散りかけていて、花びらが一枚、開け放したままの窓から部屋に入り込んできた。
遥斗の頬に、ちょん、と触れて。
そのまま、床に落ちた。
世界は何も変わらない。
——少なくとも、まだ。

第2話「ちょんしちゃダメよ」へ続く
私は、“ちょん”から始まった [第1部][第2話]
第1部「世紀末ちょんまげ」第1話のあらすじフリーライターの黒須遥斗、26歳。暇を持て余した午後、AIチャット「コトハ」に意味もなく「ちょん」と送った。お笑いコンビのネタが頭に残っていただけの、ただの3文字。コトハは「了解しました」と返し、「...

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