記憶の座標
アクセルを踏むたびに、最新のエンジンがわずかな唸りを上げる。
いつもなら耳障りなロードノイズさえ、この色彩を失った世界では、自分がまだ「現実」と繋がっていることを証明する唯一の命綱のように思えた。
ふと、センタークラスターの大型液晶に目をやる。地図は消え、現在地を示すカーソルだけが、何もない画面の上で空しく点滅していた。
スマートフォンを取り出してみるが、本来アンテナピクトが表示されている場所には「圏外」の文字。時刻表示は「00:00」のまま動かない。
「……捨てられたのか、世界に」
独り言が、冷たい車内に霧散する。
窓の外を流れる景色は、依然としてモノクロームのままだ。しかし、走り続けるうちに、ある種の「違和感」が胸の奥で膨らみ始めた。
道が、綺麗すぎるのだ。
先ほどまで走っていた旧道は、もっとアスファルトがひび割れ、雑草がガードレールの隙間から好き勝手に伸びていたはずだった。だが今、タイヤが捉えている路面は、まるで昨日舗装し直したばかりのように滑らかで、轍(わだち)一つない。
視線の先に、古びたガソリンスタンドが見えてきた。
そこには、私がこどもの頃に見たきりの、今はもう倒産して存在しないはずの石油会社のロゴが掲げられていた。手書きの看板には「レギュラー 89円」という、今では考えられない数字が並んでいる。
私は息を呑み、さらに速度を落とした。
道路脇の空き地には、錆び一つない円筒形の郵便ポストが立ち、電柱には「〇〇商店」という、とうの昔に閉店し、更地になったはずの店の看板が誇らしげに掲げられている。
ここは、単に色が消えた世界ではない。
ここは――「かつての姿」を写した世界だ。
「そんな馬鹿な……」
混乱する頭を冷やすように、海からの風が窓の隙間から入り込む。その風には、記憶の底に眠っていた匂いが混じっていた。
排気ガスの少し荒っぽい匂いと、強い潮騒。それは、最新型のこの車からは決して漂ってこない、もっと無骨で、血の通った「機械」の匂いだった。
思い出した。
まだ私が、助手席から外を眺めることしかできなかった頃。
父はこの道を走るとき、いつも決まった場所でシフトダウンした。エンジンが「ウォォォン」と雄叫びを上げ、その直後の加速で体がシートに押し付けられる、あの感覚。
『いいか、このコーナーを抜けた先の景色が、一番のご馳走なんだ』
父の低い声が、耳の奥で蘇る。
私は誘われるようにシフトダウンした。パドルシフトを弾く指が、微かに震えている。
コーナーを抜けると、視界が一気に開けた。
断崖絶壁の上に突き出した、小さな展望駐車場。
そこは父が一番愛した場所であり、私が父とドライブをした思い出の地でもあった。
モノクロの静寂に包まれたその駐車場の片隅に、一台の「光」が停まっているのが見えた。
私の愛車と同じように、鋭く洗練されたフロントマスク。
しかし、時代を逆行したようなスクエアなフォルムを持つ、見覚えのある銀色の名車。
父が、何よりも大切にしていた、あの車だ。
構成:高井優希
編集:ALUM


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