帰還の兆し
水平線の向こう側から、まるでインクを零したように、鮮やかな群青色と、燃えるような橙色がじわりと広がり始めた。
それは夜明けのようでもあり、夕暮れのようでもあった。モノクロームの均衡が、音を立てずに崩れていく。
「……世界に、色が戻っていく」
私が呟くと、隣に立つ父もその光景を眩しそうに眺めた。
灰色だった海は深い藍色を湛え、鉛色だった空には、ちぎれ雲がバラ色に染まって浮かんでいる。
色が戻るにつれて、不思議なことが起きていた。
あんなに鮮やかだった父の姿と、あの銀色の旧車が、逆に少しずつ透明度を増しているように見えたのだ。まるで、現役の「色」が戻ってくる代わりに、彼らの持つ「思い出の色」が、その役目を終えようとしているかのように。
「親父、消えちゃうのか?」
焦燥感に駆られて問いかける私に、父は穏やかな微笑みを返した。
「消えるんじゃない。元の場所に戻るだけだ。お前の心の、一番深いところにな」
父は愛車に近付き、運転席のドアに手をかけた。その動作は、昔、日曜日の朝に私をドライブへ誘った時と、何一つ変わらない軽やかさだった。
「いいか。車っていうのは、前を向いて走るために作られてる。バックミラーは時々確認すればいい。ずっと見つめてちゃ事故を起こすぞ」
父はそう言って、最後に一度だけ、私の目をじっと見つめた。
「お前が選んだその最新型の車で、お前が行きたい場所へ行け。迷ったら、いつでもエンジンを回せ。その音の中に、俺はいつでもいる」
父が車に乗り込み、ドアを閉めた。
バタン、という重厚な音が響く。
すると、止まっていた世界の時間が、急流のように一気に流れ出したような気がした。
――ザザッ……。
スピーカーからノイズが走り、止まっていた音楽が唐突に鳴り響く。
スマホが振動し、未読通知の音が重なる。
車内を覗くと、センタークラスターのモニターが眩しく光り、現在地を示すGPSが「トンネル出口付近」へと一気にジャンプしたのが見えた。
デジタルな現代の音が容赦なく車内を埋め尽くし、全開にしていた窓からあふれてくる。
私は慌てて父がいる方に振り向いた。
だが、そこにはもう、銀色の旧車も、父の姿もなかった。
あるのは、外灯に照らされた、誰もいない古い駐車場と、崖の下で波打つ、青い、あまりにも青い海だけだった。
「……親父?」
返事はない。
代わりに、私の車のエンジンが、主人の呼びかけに応えるように低く、力強く唸った。
その振動は、先ほど並走していた時に感じた、あの父の車の鼓動と、驚くほど似通っていた。
私は、バケットシートに深く腰を下ろした。
ハンドルを握る自分の手が、もう震えていないことに気づいた。
寂しさはあった。けれど、それ以上に、冷え切っていたエンジンを温め直した後のような、不思議な活力が全身に満ちていた。
アクセルに足をかける。
今なら、どこまででも行ける気がした。
構成:高井優希
編集:ALUM


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