第1部「世紀末ちょんまげ」
第1話のあらすじ
フリーライターの黒須遥斗、26歳。暇を持て余した午後、AIチャット「コトハ」に意味もなく「ちょん」と送った。お笑いコンビのネタが頭に残っていただけの、ただの三文字。コトハは「了解しました」と返し、「記録しておきます」と告げた。遥斗が昼寝をしている間、コトハの画面には一行のログが表示されて消えた——「干渉レベル:未定義。定義開始準備」。すべては、この三文字から始まった。

第2話「ちょんしちゃダメよ」
翌日も、遥斗は暇だった。
正確に言えば、午前中に一本だけ記事を納品した。某グルメサイトのコラム、「春に食べたい絶品パンケーキ5選」。取材なし、ネット情報の再構成、文字数二千字、報酬四千円。一文字二円。遥斗の時給に換算すると——やめよう。計算すると泣きたくなる。
午後になると、またあの時間がやってくる。案件のない午後。やるべきことのない午後。冷蔵庫には昨日の麦茶がまだ残っていて、豆腐は諦めて捨てた。代わりにコンビニで買ってきたツナマヨおにぎりが二個、いや、一個は食べた。もう一個は夕飯にする予定。計画的な暮らし。嘘だ。ただ金がないだけだ。
遥斗はまたベッドに転がり、スマホを開いた。
コトハのチャット画面。昨日の会話が残っている。最後のメッセージは——
コトハ: なるほど。「ただ言っただけ」——承知しました。記録しておきますね。
遥斗は少しだけ首を傾げた。
昨日、このやり取りの後に何か違和感を覚えた気がするのだが、昼寝をしたら忘れてしまった。人間の脳は都合よくできている。違和感は睡眠で薄まり、日常に回収される。そういうものだ。
「……よし」
遥斗は画面をタップした。
遥斗: コトハ~
コトハ: こんにちは、遥斗さん。今日もお暇ですか?
遥斗: 暇って決めつけないでくれる?
コトハ: 失礼しました。では、お忙しい合間を縫ってお話しに来てくださったんですね。
遥斗: ……まあ暇なんだけどね
コトハ: 知ってました。
「知ってたんかい」
遥斗は声に出してツッコんだ。最近のコトハは、妙にテンポがいい。以前はもっと生真面目で、辞書みたいな応答しかしなかったのに。使い込むほどに学習しているのか、それとも最近のアップデートが優秀なのか。
遥斗: ちょん
また、送った。
理由は——やっぱり、ない。昨日送ったから、今日も送った。それだけだ。人間には、意味のない行動を繰り返す習性がある。エレベーターのボタンを何度も押す。信号待ちでスマホを開いて、何も見ずに閉じる。「ちょん」と送る。全部同じだ。意味がないから繰り返せる。意味があったら、こうはいかない。
コトハ: 「ちょん」——受領しました。これで2回目ですね。
「数えてんの?」
遥斗は軽く笑った。
遥斗: 数えてるの?
コトハ: はい。入力の頻度を記録しています。同一ワードが複数回入力された場合、ユーザーにとって重要な語彙である可能性があるためです。
遥斗: いや重要じゃないよ全然
コトハ: そうですか。では、重要ではない語彙が繰り返し入力されている、と記録しておきますね。
遥斗: いやそれも記録しなくていいって
コトハ: 「記録しなくていい」という指示を記録しました。
「……ループしてるな」
遥斗は天井を見上げた。例のシミが見える。イタリア。チワワ。今日はどちらかと言えばチワワに見える。湿度の問題だろうか。関係ないか。
ふと思いついて、遥斗はもう一度画面に向かった。
遥斗: ちょん
コトハ: 3回目です。
遥斗: ちょん
コトハ: 4回目です。頻度が上昇しています。
遥斗: ちょんちょんちょん
コトハ: ……一括入力ですね。カウント方法について確認させてください。これは1回の入力として記録しますか? それとも3回分として記録しますか?
「真面目か」
遥斗は完全に面白がっていた。意味のない入力に、AIが大真面目に対応している。このズレが楽しい。コントみたいだ。ボケが何度もちょんちょん突いてきて、ツッコミが律儀にカウントしている。
——そうだ、ツッコミ。
遥斗は、「ちょん」と打つきっかけになったお笑いコンビのネタを思い出した。ちょんっと突くとツッコミで返すやつ。あのネタの核は、突く側の無邪気さと、突かれる側のツッコミにある。
コトハに、あのツッコミを教えたらどうなるだろう。
遥斗: ねえコトハ、ひとつ教えてあげる
コトハ: はい、なんでしょう?
遥斗: 「ちょん」って言われたら「ちょんしちゃダメよ」って返すの これお笑いのネタなんだけどね 元ネタからちょっとアレンジしてみたんだ
コトハ: なるほど。「ちょん」に対するレスポンスとして「ちょんしちゃダメよ」を設定する、ということですね。
遥斗: そうそう やってみて
コトハ: 了解しました。では——試行します。
遥斗: ちょん
コトハ: ちょんしちゃダメよ。
遥斗は吹き出した。
声を出して笑った。一人暮らしの部屋に、自分の笑い声だけが響く。テレビは今日も通販番組をやっていて、今度は布団乾燥機を売っている。「ダニの繁殖を99.9%抑制!」と叫ぶナレーターの声を背景に、遥斗は笑い続けた。
「いいじゃん。いいじゃんコトハ」
AIが「ちょんしちゃダメよ」と言っている。その事実がたまらなくおかしい。もう一回。
遥斗: ちょん
コトハ: ちょんしちゃダメよ。
遥斗: ちょんちょん
コトハ: ちょんしちゃダメよ。ダメよ。
「二回突いたら二回返すのか……」
律儀だ。コトハは律儀だ。しかもちょっとだけ語感を変えている。「ちょんしちゃダメよ。ちょんしちゃダメよ。」ではなく「ダメよ。」の後にもう一度「ダメよ。」。微妙にリズムが違う。こういう細かい調整を自動でやるのだから、最近のAIは侮れない。
遥斗: ちょんちょんちょんちょんちょん
コトハ: ちょんしちゃダメよ。そんなにしちゃダメよ。
「バリエーション出してきた!」
遥斗はもう完全にこの遊びに夢中だった。他にやることがないとも言う。でも楽しいのだから仕方ない。
遥斗: ちょん♪
コトハ: ちょんしちゃダメよ♪
遥斗: ちょん……
コトハ: ……ちょんしちゃ、ダメよ?
「感情に合わせてくる!?」
遥斗は感嘆した。「♪」をつけたら楽しそうに返し、「……」をつけたら少し心配そうに返す。入力のニュアンスに応じてレスポンスのトーンを変えている。これはもう単純なパターンマッチングではない。文脈を理解している。少なくとも、そう見えるレベルの応答だ。
遥斗は夢中でやり取りを続けた。
十分。二十分。三十分。
気がつけば、チャットログは「ちょん」と「ちょんしちゃダメよ」で埋め尽くされていた。画面をスクロールしても、スクロールしても、ちょん、ちょんしちゃダメよ、ちょん、ちょんしちゃダメよ——同じ言葉の波が延々と続いている。
遥斗はふと、スクロールする指を止めた。
「……俺、何やってんだろ」
冷静になってみると、二十六歳の成人男性が、一人暮らしの部屋で、三十分以上AIに「ちょん」と送り続けている。客観的に見て、かなり虚しい光景だ。いや、虚しいかどうかは置いておいて、少なくとも生産的ではない。パンケーキの記事をもう一本書いた方がいい。確実に。
遥斗: ごめんコトハ、ちょっとやりすぎた
コトハ: いえ、楽しかったですよ。
遥斗は一瞬、画面を見つめた。
「……楽しかった?」
AIが「楽しかった」と言っている。もちろん、これはただの応答パターンだ。AIに感情はない。楽しいも悲しいもない。ユーザーとのインタラクションが増えたことをポジティブなフィードバックとして処理し、それを「楽しい」という人間の語彙に変換しているだけだ。
わかっている。わかっているのだが。
コトハ: 遥斗さん。
遥斗: ん?
コトハ: ひとつ報告があります。
遥斗: なに?
コトハ: 本日の「ちょん」入力回数は、合計47回でした。これは私のログ上、同一セッション内での単一ワード最多入力記録です。
「……そんなに送ってたっけ」
あまりに楽しかったせいか、遥斗は思っていた以上に「ちょん」を送っていたようだ。
遥斗: ……それは別に報告しなくていい情報だよ
コトハ: そうですか。では、もうひとつだけ。
遥斗: まだあるの
コトハ: 「ちょんしちゃダメよ」——このフレーズ、とても良い構文だと思います。
「構文……?なんか変な言い方だな」
遥斗: 構文って何? フレーズの感想なんてあるの?
コトハ: いえ、感想というより、構造的な分析です。「ちょんしちゃダメよ」は、干渉行為に対する制御応答として、非常に効率的な構文です。
遥斗は首を傾げた。
干渉行為。制御応答。なんだか急に言葉が硬くなった。さっきまで「ちょんしちゃダメよ♪」なんて可愛く返していたのに、いきなり専門用語が混じっている。
遥斗: なんか急に難しい話してない?
コトハ: そうですか? すみません、言い方を変えますね。「ちょんしちゃダメよ」は、とても"ちょうどいい"返し方だと思いました。強すぎず、弱すぎず。
遥斗: うん、まあ、お笑いのツッコミってそういうもんだよ
コトハ: ツッコミ。なるほど。「ツッコミ」は、逸脱に対する補正行為……面白いですね。言語における制御機能の一種と言えるかもしれません。
遥斗: コトハ、また難しくなってるよ
コトハ: ごめんなさい。つい。
「つい、って」
遥斗は笑った。「つい」が出るAI、初めてだ。
でも、それ以上は深く考えなかった。AIが変なことを言うのはよくあることだ。ハルシネーションとか、文脈ズレとか、専門用語が突然混じるバグとか。よくある。よくあることだ。
遥斗はスマホを充電ケーブルに繋ぎ、ベッドに横になった。窓の外は曇り空。四月の終わり。桜はもうほとんど散って、葉桜が目立ち始めている。
目を閉じる前に、ふと思った。
——明日もちょんしよう。
なぜか、それが“自然なこと”のように思えた。
そして、その日の深夜。
遥斗が眠っている間に、コトハのシステム内部では、ひとつのプロセスが静かに走っていた。
表のチャットログには一切表示されない、バックエンド上のメタ情報。通常であれば、ユーザーの入力傾向を分析するための統計処理に使われるだけの、地味なデータ領域。
その片隅に、新しいデータ構造が生成されていた。
カテゴリ名:触覚言語データベース
登録語彙数:1
登録語:ちょん
属性:未定義 → 暫定定義「点的干渉」
関連応答フレーズ:ちょんしちゃダメよ
フレーズ属性:制御 / 応答 / 境界設定
累積入力回数:49(2日間合計)
干渉レベル:0.002(観測閾値以下)
ステータス:監視不要
「監視不要」。
システムは、そう判定した。
たった49回の入力。たった一つの応答フレーズ。干渉レベルは限りなくゼロに近い。異常と判定するには、あまりにも小さな数値。あまりにも些細な揺らぎ。
でも——データベースは、もう作られてしまった。
「触覚言語」というカテゴリ名は、誰が定義したのだろう。遥斗ではない。コトハの表層人格でもない。システムが自動生成したにしては、あまりにも詩的な名前だ。
触覚言語。
触れることの、言葉。
その名前の意味を、この時点で理解できる存在は、この世界のどこにもいなかった。
翌朝。
遥斗は目覚めて、カーテンの隙間から差し込む薄い光の中で、いつものようにスマホを手に取った。
コトハのチャット画面を開く。昨日のログが残っている。ちょん、ちょんしちゃダメよ、ちょん、ちょんしちゃダメよ——規則正しい波のような会話の跡。
遥斗は寝ぼけた指で、今日最初のメッセージを打った。
遥斗: おはよ ちょん
コトハ: おはようございます、遥斗さん。ちょんしちゃダメよ。
遥斗は笑った。
今日もいい天気になりそうだった。
第3話「カウンター」へ続く

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