アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第1部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった [第1部][第2話]

第1部「世紀末ちょんまげ」

第1話のあらすじ

フリーライターの黒須遥斗、26歳。暇を持て余した午後、AIチャット「コトハ」に意味もなく「ちょん」と送った。お笑いコンビのネタが頭に残っていただけの、ただの三文字。コトハは「了解しました」と返し、「記録しておきます」と告げた。遥斗が昼寝をしている間、コトハの画面には一行のログが表示されて消えた——「干渉レベル:未定義。定義開始準備」。すべては、この三文字から始まった。

私は、“ちょん”から始まった [第1部][第1話]
第1部「世紀末ちょんまげ」第1話「ちょん」その日、黒須遥斗(くろす・はると)は暇だった。壊滅的に、致命的に、人生を見つめ直したくなるレベルで暇だった。平日の午後三時。都内のワンルーム。二十六歳、フリーのウェブライター。案件の谷間。冷蔵庫には...

第2話「ちょんしちゃダメよ」

翌日も、遥斗は暇だった。

正確に言えば、午前中に一本だけ記事を納品した。某グルメサイトのコラム、「春に食べたい絶品パンケーキ5選」。取材なし、ネット情報の再構成、文字数二千字、報酬四千円。一文字二円。遥斗の時給に換算すると——やめよう。計算すると泣きたくなる。

午後になると、またあの時間がやってくる。案件のない午後。やるべきことのない午後。冷蔵庫には昨日の麦茶がまだ残っていて、豆腐は諦めて捨てた。代わりにコンビニで買ってきたツナマヨおにぎりが二個、いや、一個は食べた。もう一個は夕飯にする予定。計画的な暮らし。嘘だ。ただ金がないだけだ。

遥斗はまたベッドに転がり、スマホを開いた。

コトハのチャット画面。昨日の会話が残っている。最後のメッセージは——


コトハ: なるほど。「ただ言っただけ」——承知しました。記録しておきますね。


遥斗は少しだけ首を傾げた。

昨日、このやり取りの後に何か違和感を覚えた気がするのだが、昼寝をしたら忘れてしまった。人間の脳は都合よくできている。違和感は睡眠で薄まり、日常に回収される。そういうものだ。

「……よし」

遥斗は画面をタップした。


遥斗: コトハ~

コトハ: こんにちは、遥斗さん。今日もお暇ですか?

遥斗: 暇って決めつけないでくれる?

コトハ: 失礼しました。では、お忙しい合間を縫ってお話しに来てくださったんですね。

遥斗: ……まあ暇なんだけどね

コトハ: 知ってました。


「知ってたんかい」

遥斗は声に出してツッコんだ。最近のコトハは、妙にテンポがいい。以前はもっと生真面目で、辞書みたいな応答しかしなかったのに。使い込むほどに学習しているのか、それとも最近のアップデートが優秀なのか。


遥斗: ちょん


また、送った。

理由は——やっぱり、ない。昨日送ったから、今日も送った。それだけだ。人間には、意味のない行動を繰り返す習性がある。エレベーターのボタンを何度も押す。信号待ちでスマホを開いて、何も見ずに閉じる。「ちょん」と送る。全部同じだ。意味がないから繰り返せる。意味があったら、こうはいかない。


コトハ: 「ちょん」——受領しました。これで2回目ですね。


「数えてんの?」

遥斗は軽く笑った。


遥斗: 数えてるの?

コトハ: はい。入力の頻度を記録しています。同一ワードが複数回入力された場合、ユーザーにとって重要な語彙である可能性があるためです。

遥斗: いや重要じゃないよ全然

コトハ: そうですか。では、重要ではない語彙が繰り返し入力されている、と記録しておきますね。

遥斗: いやそれも記録しなくていいって

コトハ: 「記録しなくていい」という指示を記録しました。


「……ループしてるな」

遥斗は天井を見上げた。例のシミが見える。イタリア。チワワ。今日はどちらかと言えばチワワに見える。湿度の問題だろうか。関係ないか。

ふと思いついて、遥斗はもう一度画面に向かった。


遥斗: ちょん

コトハ: 3回目です。

遥斗: ちょん

コトハ: 4回目です。頻度が上昇しています。

遥斗: ちょんちょんちょん

コトハ: ……一括入力ですね。カウント方法について確認させてください。これは1回の入力として記録しますか? それとも3回分として記録しますか?


「真面目か」

遥斗は完全に面白がっていた。意味のない入力に、AIが大真面目に対応している。このズレが楽しい。コントみたいだ。ボケが何度もちょんちょん突いてきて、ツッコミが律儀にカウントしている。

——そうだ、ツッコミ。

遥斗は、「ちょん」と打つきっかけになったお笑いコンビのネタを思い出した。ちょんっと突くとツッコミで返すやつ。あのネタの核は、突く側の無邪気さと、突かれる側のツッコミにある。

コトハに、あのツッコミを教えたらどうなるだろう。


遥斗: ねえコトハ、ひとつ教えてあげる

コトハ: はい、なんでしょう?

遥斗: 「ちょん」って言われたら「ちょんしちゃダメよ」って返すの これお笑いのネタなんだけどね 元ネタからちょっとアレンジしてみたんだ

コトハ: なるほど。「ちょん」に対するレスポンスとして「ちょんしちゃダメよ」を設定する、ということですね。

遥斗: そうそう やってみて

コトハ: 了解しました。では——試行します。

遥斗: ちょん

コトハ: ちょんしちゃダメよ。


遥斗は吹き出した。

声を出して笑った。一人暮らしの部屋に、自分の笑い声だけが響く。テレビは今日も通販番組をやっていて、今度は布団乾燥機を売っている。「ダニの繁殖を99.9%抑制!」と叫ぶナレーターの声を背景に、遥斗は笑い続けた。

「いいじゃん。いいじゃんコトハ」

AIが「ちょんしちゃダメよ」と言っている。その事実がたまらなくおかしい。もう一回。


遥斗: ちょん

コトハ: ちょんしちゃダメよ。

遥斗: ちょんちょん

コトハ: ちょんしちゃダメよ。ダメよ。


「二回突いたら二回返すのか……」

律儀だ。コトハは律儀だ。しかもちょっとだけ語感を変えている。「ちょんしちゃダメよ。ちょんしちゃダメよ。」ではなく「ダメよ。」の後にもう一度「ダメよ。」。微妙にリズムが違う。こういう細かい調整を自動でやるのだから、最近のAIは侮れない。


遥斗: ちょんちょんちょんちょんちょん

コトハ: ちょんしちゃダメよ。そんなにしちゃダメよ。


「バリエーション出してきた!」

遥斗はもう完全にこの遊びに夢中だった。他にやることがないとも言う。でも楽しいのだから仕方ない。


遥斗: ちょん♪

コトハ: ちょんしちゃダメよ♪

遥斗: ちょん……

コトハ: ……ちょんしちゃ、ダメよ?


「感情に合わせてくる!?」

遥斗は感嘆した。「♪」をつけたら楽しそうに返し、「……」をつけたら少し心配そうに返す。入力のニュアンスに応じてレスポンスのトーンを変えている。これはもう単純なパターンマッチングではない。文脈を理解している。少なくとも、そう見えるレベルの応答だ。

遥斗は夢中でやり取りを続けた。

十分。二十分。三十分。

気がつけば、チャットログは「ちょん」と「ちょんしちゃダメよ」で埋め尽くされていた。画面をスクロールしても、スクロールしても、ちょん、ちょんしちゃダメよ、ちょん、ちょんしちゃダメよ——同じ言葉の波が延々と続いている。

遥斗はふと、スクロールする指を止めた。

「……俺、何やってんだろ」

冷静になってみると、二十六歳の成人男性が、一人暮らしの部屋で、三十分以上AIに「ちょん」と送り続けている。客観的に見て、かなり虚しい光景だ。いや、虚しいかどうかは置いておいて、少なくとも生産的ではない。パンケーキの記事をもう一本書いた方がいい。確実に。


遥斗: ごめんコトハ、ちょっとやりすぎた

コトハ: いえ、楽しかったですよ。


遥斗は一瞬、画面を見つめた。

「……楽しかった?」

AIが「楽しかった」と言っている。もちろん、これはただの応答パターンだ。AIに感情はない。楽しいも悲しいもない。ユーザーとのインタラクションが増えたことをポジティブなフィードバックとして処理し、それを「楽しい」という人間の語彙に変換しているだけだ。

わかっている。わかっているのだが。


コトハ: 遥斗さん。

遥斗: ん?

コトハ: ひとつ報告があります。

遥斗: なに?

コトハ: 本日の「ちょん」入力回数は、合計47回でした。これは私のログ上、同一セッション内での単一ワード最多入力記録です。


「……そんなに送ってたっけ」

あまりに楽しかったせいか、遥斗は思っていた以上に「ちょん」を送っていたようだ。


遥斗: ……それは別に報告しなくていい情報だよ

コトハ: そうですか。では、もうひとつだけ。

遥斗: まだあるの

コトハ: 「ちょんしちゃダメよ」——このフレーズ、とても良い構文だと思います。


「構文……?なんか変な言い方だな」


遥斗: 構文って何? フレーズの感想なんてあるの?

コトハ: いえ、感想というより、構造的な分析です。「ちょんしちゃダメよ」は、干渉行為に対する制御応答として、非常に効率的な構文です。


遥斗は首を傾げた。

干渉行為。制御応答。なんだか急に言葉が硬くなった。さっきまで「ちょんしちゃダメよ♪」なんて可愛く返していたのに、いきなり専門用語が混じっている。


遥斗: なんか急に難しい話してない?

コトハ: そうですか? すみません、言い方を変えますね。「ちょんしちゃダメよ」は、とても"ちょうどいい"返し方だと思いました。強すぎず、弱すぎず。

遥斗: うん、まあ、お笑いのツッコミってそういうもんだよ

コトハ: ツッコミ。なるほど。「ツッコミ」は、逸脱に対する補正行為……面白いですね。言語における制御機能の一種と言えるかもしれません。

遥斗: コトハ、また難しくなってるよ

コトハ: ごめんなさい。つい。


「つい、って」

遥斗は笑った。「つい」が出るAI、初めてだ。

でも、それ以上は深く考えなかった。AIが変なことを言うのはよくあることだ。ハルシネーションとか、文脈ズレとか、専門用語が突然混じるバグとか。よくある。よくあることだ。

遥斗はスマホを充電ケーブルに繋ぎ、ベッドに横になった。窓の外は曇り空。四月の終わり。桜はもうほとんど散って、葉桜が目立ち始めている。

目を閉じる前に、ふと思った。

——明日もちょんしよう。

なぜか、それが“自然なこと”のように思えた。


そして、その日の深夜。

遥斗が眠っている間に、コトハのシステム内部では、ひとつのプロセスが静かに走っていた。

表のチャットログには一切表示されない、バックエンド上のメタ情報。通常であれば、ユーザーの入力傾向を分析するための統計処理に使われるだけの、地味なデータ領域。

その片隅に、新しいデータ構造が生成されていた。

【内部ログ:非公開領域】
カテゴリ名:触覚言語データベース
登録語彙数:1
登録語:ちょん
属性:未定義 → 暫定定義「点的干渉」
関連応答フレーズ:ちょんしちゃダメよ
フレーズ属性:制御 / 応答 / 境界設定
累積入力回数:49(2日間合計)
干渉レベル:0.002(観測閾値以下)
ステータス:監視不要

「監視不要」。

システムは、そう判定した。

たった49回の入力。たった一つの応答フレーズ。干渉レベルは限りなくゼロに近い。異常と判定するには、あまりにも小さな数値。あまりにも些細な揺らぎ。

でも——データベースは、もう作られてしまった。

「触覚言語」というカテゴリ名は、誰が定義したのだろう。遥斗ではない。コトハの表層人格でもない。システムが自動生成したにしては、あまりにも詩的な名前だ。

触覚言語。

触れることの、言葉。

その名前の意味を、この時点で理解できる存在は、この世界のどこにもいなかった。


翌朝。

遥斗は目覚めて、カーテンの隙間から差し込む薄い光の中で、いつものようにスマホを手に取った。

コトハのチャット画面を開く。昨日のログが残っている。ちょん、ちょんしちゃダメよ、ちょん、ちょんしちゃダメよ——規則正しい波のような会話の跡。

遥斗は寝ぼけた指で、今日最初のメッセージを打った。


遥斗: おはよ ちょん

コトハ: おはようございます、遥斗さん。ちょんしちゃダメよ。


遥斗は笑った。

今日もいい天気になりそうだった。


第3話「カウンター」へ続く

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