きみの正解は、春の色
Your Answer is the Color of Spring空気ではなく、温度のこと
窓を開けて気分転換を、と提案した蒼介。だが日向は花粉症だった。リフレッシュのつもりが「ダメージ」になりかけたその日から、蒼介の中に小さな問いが芽生えた。――「正解」は、誰にとっての正解なのだろう、と。
翌週の月曜日、蒼介は少し早めに出社した。
理由は特にない。強いて言えば、先週の「窓事件」がまだ頭の隅に残っていて、なんとなく落ち着かなかったからだ。自分でも少し可笑しいと思う。あれは小さな失敗だった。日向も笑って流してくれた。なのに、どうしてこんなに気になるのだろう。
デスクに座って、温かいコーヒーを一口飲む。
――「正解」というのは、いったい誰にとっての正解なんだろう。
先週の帰り道に浮かんだその問いが、まだそこにあった。
日向が出社してきたのは、始業十分前だった。
相変わらずマスクをしていて、目のあたりがほんのり赤い。それでも「おはよー」と言う声は明るくて、コートを脱ぎながら自分のデスクにすとんと落ち着く様子は、いつもと変わらなかった。
「おはようございます。……今日も、ひどいですか。花粉」
「まあまあかな。昨日よりはまし。でも外、すごかったよ。駅から歩いてくる間だけで目がかゆくなった」
蒼介はそれを聞いて、何か言おうとして、止まった。
先週の自分なら、ここで「目薬はさしましたか」とか「マスクの上にガーゼを当てると効果的らしいですよ」とか、何かしら情報を出していたと思う。
でも今日は、なぜかそれをしなかった。
ただ、「そうか」と思って、日向の横顔を見た。目がかゆいのに、それでも「まあまあ」と言える日向のことを、少しだけ不思議だと思いながら。
午前中は会議が二本あって、ふたりともしばらく席を外していた。
蒼介が戻ってくると、日向のデスクに缶のホットコーヒーが一本置いてあった。日向本人はまだ戻っていない。誰かが置いていったのか、日向が自分で買ってきて先に置いたのか。
蒼介はそれを見て、なぜか少しだけ胸が動いた。
――温かいもの。
花粉症には、温かい飲み物がいいという話を、どこかで読んだ気がした。体を温めると鼻の通りが少し楽になる、とか。自分がコーヒーを飲んでいるとき、日向のことを頭の片隅に置いていただろうか。たぶん、置いていなかった。
それが、少し恥ずかしかった。
昼休み、食堂で隣になった。
日向はうどんを選んでいた。蒼介はいつも通り、日替わり定食を取ろうとして、ふと手を止めた。今日の日替わりは生姜焼き。温かい、胃に優しい感じのやつだ。
花粉症のときって、消化のいいものがいいのだろうか。それとも関係ないのだろうか。わからない。
結局、蒼介はいつも通り生姜焼き定食を取った。そして向かいに座った日向のうどんを見て、なんとなく言った。
「うどん、温かいですね」
日向は少し目を丸くして、それからくすっと笑った。
「そうだよ。花粉の時期はね、冷たいものより温かいほうが、なんとなく楽な気がして」
「……それ、医学的に根拠があるんですか?」
「さあ。でも、気持ちの話じゃないかな。体が温まると、すこし気が楽になる気がするんだよね。理屈じゃなくて」
理屈じゃなくて。……その言葉が、なぜか妙に刺さった。
蒼介はいつも、根拠を探す。データを見る。ベストな方法を考える。それが自分のやり方だと思っていた。
でも日向は「気がする」で選んでいる。理屈ではなく、自分の感覚で。
それが、間違いだとは思わなかった。むしろ、何か大切なものがそこにある気がして、蒼介はしばらく自分の生姜焼きを見つめた。
午後、蒼介はふと思いついて、ひとつのことをした。
自動販売機に行って、ホットのほうじ茶を一本買った。そして日向のデスクに、そっと置く。日向がトイレに立っている隙に。メモも何もなし。
戻ってきた日向が、ほうじ茶に気づいて、「あれ」と言いながら辺りを見回した。蒼介はモニターを見つめたまま、何も言わなかった。
「……誰かが置いていってくれたのかな」
独り言のように呟いて、日向はほうじ茶を両手で包んだ。
「温かい……ありがとう、誰か」
蒼介はそれを横目で見て、ほんの少しだけ、口の端が上がった。
「正解」かどうかは、わからない。でも今日初めて、「誰かのための正解」というものを、少しだけ考えられた気がした。
窓の外では、また花粉が飛んでいるのだろう。
蒼介は今日も、窓を開けなかった。
― 第二話 了 ―
次回「第三話:提案しない、という提案」

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