その町には、ゆっくりと風が通る。
電車は一時間に一本。
改札を出ると、商店街は短く、空はやけに広い。
昔ながらの八百屋と、少し傾いた理髪店。
どこかで揚げ物の匂いがして、遠くで犬が吠える。
久しぶりに降りたその駅で、私は立ち止まった。
子どものころ、夏休みに何度も訪れた町だった。
祖母の家はもうなくなり、空き地になっていると聞いている。
懐かしさはあるのに、帰る場所はない。
そんな不思議な気持ちで、商店街を歩いた。
角を曲がったところに、小さな駄菓子屋があった。
「……まだあったんだ」
色あせた暖簾。
手書きの値札。
ガラスケースの中のビー玉。
扉を開けると、風鈴が鳴った。
「いらっしゃい」
奥から出てきたのは、白髪のおばあさんだった。
見覚えはない。けれど、この町に似合う人だった。
「懐かしいでしょう」
そう言われて、思わず笑ってしまう。
「わかりますか」
「ここに来る人はね、みんな同じ顔をするの」
私はラムネを一本、買った。
瓶の冷たさが、指に心地いい。
店を出ようとしたとき、おばあさんが声をかけた。
「あなた、風の置き手紙を探している顔をしてるよ」
「……風の、置き手紙?」
「ええ。気づかない人もいるけどね」
意味がわからないまま、外に出た。
商店街を抜け、祖母の家があった空き地へ向かう。
更地には、夏草が揺れているだけ。
ふいに、風が吹いた。
ざあ、と草が鳴る。
その音に混じって、懐かしい声が聞こえた気がした。
――「ちゃんと食べてるかい」
――「転ばないようにね」
――「またおいで」
もちろん、本当に聞こえたわけじゃない。
でも、胸の奥に、確かに届いた。
足元を見ると、白い小さな貝殻が落ちていた。
この町は海から少し離れているのに。
私はそれを拾い上げた。
子どものころ、祖母と一緒に海へ行き、
ポケットいっぱいに貝殻を詰めて帰った日のことを思い出す。
あのとき祖母は言った。
「風はね、覚えてるんだよ。
誰が笑って、誰が泣いて、ここで何を話したか」
また風が吹いた。
今度は、背中をそっと押すような風だった。
振り返ると、遠くで駄菓子屋の風鈴が鳴っている。
私は、少しだけ深呼吸をした。
帰る場所は、もうないと思っていた。
けれど、風は覚えていた。
この町も、空も、匂いも。
そしてたぶん、私のことも。
駅へ向かう途中、もう一度だけ振り返る。
空き地には、ただ草が揺れているだけだった。
けれど私は、確かに受け取ったのだ。
形のない、
けれど消えない、
風の置き手紙を。
その日から、ときどき思い出す。
忙しい日々の合間に、
ふいに吹き抜ける風の中で。
――ちゃんと食べてるかい。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
それで、十分なのだと思う。
構成:高井優希
編集:灯-AkarI-


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