【二千日の残響】雲一つない空と、空白の椅子
その日は皮肉なほどに晴れ渡っていた。 私の心も、この空のように澄み切っている……はずだった。
正式に私の部下になってから、今日でちょうど2,000日。 一人の人間を育て、守り、時には盾となって戦ってきた長い旅路の終着駅。 私は朝から、彼に掛ける最後の言葉を選んでいた。 「よく頑張った」は嘘になる。「今までありがとう」も何だか違う。「がんばれよ」……それなら言えるだろうか。 最後くらいは、上司としてではなく、一人の人間として笑顔で送り出してあげよう。そう心に決めていた。
だが、私のデスクに駆け寄ってきた経理担当者の言葉が、その決心を粉々に砕いた。
「彼、今日はお腹が痛いので欠勤するそうです」
……はい?
私は自分の耳を疑った。今日が何の日か、彼は忘れたのだろうか。
「もう一度、言ってください」
「ですから……今日は体調不良で欠勤だそうです。ご挨拶もできないとのことでした」
笑いすら出なかった。約10年。私が彼のために費やした3,000日以上の日々。そのうち、彼が私の部下として席を並べた2,000日。 その結末が、これか。
彼は最後の最後まで、自分と向き合うことから逃げ出した。 私と目を合わせること、同僚に頭を下げること、そして「自分が去る」という現実を引き受けること。それらすべてを「お腹が痛い」という、こどもじみた嘘の影に隠して、彼は泥のように消えていったのだ。
挨拶もない。引き継ぎもない。感謝も、謝罪も、何もない。 ただ、主のいないデスクに埃が積もっていくのを待つだけの、あまりにも空虚なエンディング。
「……あいつの先が思いやられるな」
ふと口を突きかけた言葉を、私は頭を振って強引に打ち消した。 もう、いいんだ。 彼がこの先、どんなゲームに興じようと、どんな言い訳を並べようと、それはもう私の人生のノイズではない。
私は、窓から見える眩しい青空をもう一度見上げた。 2,000日の重荷が、ようやく肩から滑り落ちていくのを感じる。 私はゆっくりと自分のPCを開き、新しいプロジェクトの資料を作成し始めた。
私の「上司」としての戦いは、これからも続く。 ただ、そこにはもう、あの「不誠実な影」は存在しない。
- 完 -
構成:高井優希
編集:Mini=G


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