私の人生は、定規で引いたように真っ直ぐだった。
望まれるような成績を取り、
堅実な大学へ進み、
誰もが知る安定した企業に就職した。
福利厚生も将来性も、何ひとつ文句はない。
上司は穏やかで、数年後の昇進ルートも、定年までの景色も、ぼんやりと見えていた。
「いい人生だね」
知人にそう言われるたび、私は小さく頷き、微笑んだ。
たしかに、悪くない。
けれど、心のどこかで、凪いだ海を見つめるような静かな空虚を感じていた。
――この道の先には、何があるんだろう。
毎朝同じ時刻の電車に揺られ、
記号のような景色を眺め、
決められた自分の席に座る。
光は、たしかに私の道を照らしていた。
けれどそれはあまりに真正面からで、足元に影すら落とさない。
そんな、ある春の朝のことだった。
駅に向かういつもの道、
細い路地の奥から、柔らかな光がこぼれているのが見えた。
それは朝日の鋭さとも、街灯の冷たさとも違う、どこか温度を持った光だった。
ふと、足が止まった。
遅刻するような時間ではない。
ほんの少し、覗いてみるくらいなら。
私は誘われるように、いつもは素通りする路地へ足を踏み入れた。
そこには、ひっそりと佇む小さなギャラリーがあった。
古い建物を改装したその空間には、微かに木の匂いが満ちている。
「見ていきますか?」
声をかけてきたのは、使い込まれた一眼レフを首から下げた女性だった。
彼女はかつて私と同じように組織で働いていたが、
今は旅をしながら、その瞬間だけの光を切り取っているのだという。
「安定は手放しましたけど、世界はうんと面白くなりましたよ」
悪戯っぽく笑う彼女の言葉が、私の胸に深く沈殿した。
――面白くなりました。
それは、これまでの私の辞書には、一度も登場しなかった言葉だった。
その日、私は人生で初めて会社に遅刻した。
わずか十五分。
けれど、その小さな逸脱が、凪いでいた私の日常に消えない波紋を広げた。
上司に呼ばれ、定型文のような注意を受ける。
「君らしくないじゃないか」
その言葉が、なぜか刃のように胸に刺さった。
――私らしさって、いったい何のことだろう。
帰り道、吸い寄せられるようにまたあの路地を訪れた。
ギャラリーの灯は、夜の帳の中で優しく揺れている。
「また来ましたね」
彼女はすべてを見透かしたように笑った。
それから私は、週に一度、その場所へ通うようになった。
PCに向かう代わりにファインダーを覗き、休日には地図を持たずに知らない町へ出かけた。
気づけば、
完璧な書類を作り上げる達成感よりも、
光と影が交差する一瞬をシャッターで捉える瞬間のほうが、私の心は激しく脈打っていた。
一年後。
私は机の上に、一通の退職願を置いた。
上司は心底驚いた顔をした。
「正気か? 君なら、順当にいけば部長クラスまでは約束されているんだぞ」
わかっていた。
レールは、どこまでも頑丈に、真っ直ぐに敷かれていた。
けれど私は、あの朝、路地に差し込んでいた「曲がった光」を思い出していた。
光は、決して一直線だけではない。
くるりと角を曲がって、思いもよらない場所へと私を誘い出す。
今、私は旅先の小さな町で、手作りの写真展の準備をしている。
収入は不安定で、明日さえも見通せない。
けれど、不思議なほど足取りは軽い。
あの日、ほんの少しだけ曲がった光の先を、信じてみただけだ。
もし、あのとき立ち止まることを恐れていたら。
もし、遅刻を避けて、いつもの道をまっすぐ歩き続けていたら。
きっと私は今も、
同じ席に座り、同じ景色を眺め、
「悪くない人生だ」と自分に言い聞かせながら、死んだように生きていただろう。
それは、揺るぎない安泰だったかもしれない。
でも――
あの光の導きに抗って、真っ直ぐな道に戻っていたら、
私の人生は、どれほど味気なく、つまらないものだっただろうか。
夜のギャラリーに灯る光は、今日も少しだけ、角を曲がった先を照らしている。
そして私は、その不確かな曲がり角を、
心から愛している。
構成:高井優希
編集:灯-AkarI-


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