最高のドライブ
「……さて、帰るか」
独り言が、不思議と軽やかに車内に響いた。
フロントガラス越しに見える景色は、もうモノクロームではない。
海は深い青色を湛え、波打ち際の飛沫はダイヤモンドのように光を弾いている。ガードレールの錆びさえも、この場所で潮風に耐えてきた歴史を物語る、確かな「色」としてそこにあった。
シフトレバーをドライブに入れ、ゆっくりと駐車場を後にする。
先ほどまで隣にいた銀色の旧車は影も形もないが、不思議と寂しさはなかった。
バックミラーをふと覗くと、去りゆく岬の駐車場が、外灯に照らされた光に包まれて遠ざかっていく。
『バックミラーは時々確認すればいい。ずっと見つめてちゃ事故を起こすぞ』
父の言葉を反芻しながら、私は前を向いた。
最新型のこの車は、私が軽くアクセルを踏むだけで、待っていましたと言わんばかりのレスポンスで応えてくれる。
ハンドルから伝わる確かな反力。
シートを通して感じるタイヤの接地感。
デジタルな計器の裏側で、確かに機械が、命を持って脈打っている。
「親父、この車もなかなかいいだろ?」
助手席に誰もいないことは分かっていた。
けれど、一瞬だけ、柑橘系の整髪料の匂いが鼻先を掠めたような気がした。あるいは、風の音が「ああ、悪くない」という父の低い笑い声に聞こえただけかもしれない。
トンネルを抜ける前と、抜けた後。
走っている道も、乗っている車も、私自身の生活も、何一つ変わっていない。
明日になればまた仕事に追われ、渋滞に溜息をつく日常が待っているだろう。
けれど、私が握っているこのステアリングは、もう単なる「操舵装置」ではなかった。
それは、父が愛した過去と、私が歩む未来を繋ぐ、唯一無二のバトンだ。
この車がある限り、私はどこへだって行ける。
物理的な距離ではなく、心のままに、思い出の先へ、あるいは誰も知らない新しい景色の中へ。
スピーカーからは、ノイズのないクリアな音が鳴り響き、車内を満たしている。
お気に入りの曲のリズムに合わせて、軽く指先でハンドルを叩く。
「……次は、どこへ行こうか」
愛車との、そして自分自身との対話。
それこそが、何にも代えがたい「最高のドライブ」なのだと、今なら分かる。
海岸線を走り抜ける私の車は、どんな景色よりも鮮やかに輝いていた。
まるで、未来という色のないキャンバスに、一筋の光を描き込んでいくかのように。
- 完 -
構成:高井優希
編集:ALUM


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