Dark End -if-
Act.6「共倒れ」
お姉様が壊れた日。
かっこが暗闇の部屋から出てきたとき、あたくしは静かに待っていました。
「壊れました?」
かっこが頷きました。表情はありません。任務を完了した兵士のような、空虚な顔。
「反応がなくなった。何を言っても、何をしても。……目は開いてるけど、何も映ってない」
「そう」
あたくしは微笑みました。
十分ですわ。
あたくしの中で、ひとつの判断が下されました。もうこの子は必要ない。かっこに植え付けた嫉妬と憎悪は、お姉様を壊すためだけの道具でした。道具が用途を果たしたなら、返却するのが礼儀ですわよね。
かっこの中にある「あっちの世界」の支配を、解きました。
糸を切るように。簡単に。
……。
…………。
あれ。
あたし。
頭が重い。靄がかかってる。体が自分のものに戻っていく感覚。指先に血が通う。視界がクリアになる。
ここ、どこだっけ。
暗い廊下。奥に部屋がある。ドアが開いている。
記憶が戻ってくる。
最初はゆっくり。それから一気に。津波みたいに。
いーねーちゃんに侵食されたこと。すーねーちゃんを追い詰めたこと。「何もしなくてよかった」と言ったこと。すーねーちゃんが「あっちの世界」に落ちたこと。
そして。
毎日。毎日。すーねーちゃんのところへ行って。鎖に繋がれたすーねーちゃんを。
顎を掴んで。髪を掴んで。ひとつずつ。ひとつずつ。
すーねーちゃんが信じていた全部を。
壊した。
「……嘘……」
体が震え始めた。止まらない。歯が鳴る。膝が笑う。
記憶がある。全部ある。最初の日からずっと。すーねーちゃんの目から光が消えていく過程が、全部、あたしの視点で、あたしの手で、あたしの声で。
「嘘……嘘だよ……あたし、そんな……」
ドアの向こう。暗い部屋。
足が勝手に動いた。走った。部屋に入った。
いた。
すーねーちゃんが。
壁に背をもたれて。鎖に繋がれて。髪が乱れて。頬がこけて。唇が乾いて。
目が開いていた。でも何も映っていなかった。
生きている。息をしている。心臓が動いている。
でも、それだけ。
「……すーねーちゃん……」
駆け寄った。膝をついた。すーねーちゃんの肩を掴んだ。揺すった。
「すーねーちゃん……! すーねーちゃん……! あたしだよ……! かっこだよ……!」
反応がない。目が動かない。呼吸が変わらない。
あたしの手を見た。この手で。この手で、すーねーちゃんの顎を掴んだ。髪を掴んだ。言葉を叩きつけた。
「がっかり」と、この口で言った。
「すーねーちゃんがいなくてもやっていけた」と、この声で言った。
全部、あたしが。
「ごめん……ごめんなさい……ごめんなさい……!!」
叫んだ。すーねーちゃんの体にすがりついて。すーねーちゃんの匂いがした。前と同じ匂い。寝癖と柔軟剤の匂い。変わってない。体は変わってないのに、中身が壊れている。
あたしが壊した。
あたしの手で。あたしの言葉で。あたしの――嫉妬で。
嫉妬。
あれは、本当にあたしのものだったんだ。「あっちの世界」に植え付けられたんじゃない。増幅されただけ。元々あった。すーねーちゃんへの嫉妬は、最初から、あたしの中に。
「……嘘だよ……あたし、すーねーちゃんのこと好きだった……好きだったのに……」
好きと嫉妬は共存する。尊敬と劣等感は表裏一体。分かっていた。分かっていたはずなのに。
「すーねーちゃん……返事して……お願い……何か言って……怒ってもいいから……ドジの話でもいいから……すーねーちゃん……」
何も返ってこなかった。
すーねーちゃんの目が、あたしを通り抜けていた。あたしがいてもいなくても同じだった。もう、誰もいない場所を見ていた。
あたしは、すーねーちゃんの膝の上に顔を埋めた。
泣いた。
泣いて、泣いて、泣いて。
泣き疲れて。
泣き果てて。
そして。
――壊れた。
静かに。音もなく。あたし自身が。
記憶の重さに。罪の重さに。自分が何をしたかという事実の重さに。
すーねーちゃんと同じ目になっていくのが、分かった。何も映さない目。何も聞こえない耳。何も感じない心。
すーねーちゃんの膝の上で。鎖の音だけが響く部屋で。
あたしは、自分を手放した。
静寂。
暗い部屋に、二人の人形が残されました。
壁にもたれたお姉様と、その膝に伏したかっこ。どちらも目を開けていて、どちらも何も見ていません。生きているけれど、生きていない。呼吸するだけの器。
あたくしはドアの枠に肩をもたれて、その光景を眺めていました。
うまくいきました。
完璧に。
かっこの中にあった嫉妬の種。あたくしはそれを見つけて、水をやって、日を当てて、膨れ上がらせた。嫉妬は憎悪になり、憎悪は破壊衝動になり、かっこはお姉様を壊した。
そして、壊した記憶を持ったまま正気に戻されたかっこは、自分の罪の重さに耐えきれず、自壊した。
共倒れ。
二人がかりで守ろうとしたものを、二人がかりで壊して、二人とも壊れた。
美しいですわね。
あたくしは暗い部屋を出て、廊下を歩きました。足音が響きます。こつ、こつ、こつ。
リビングに出ました。カーテンを閉めた薄暗いリビング。テーブルの上に、三つのカップが置きっぱなしになっていました。ほうじ茶。紅茶。麦茶。もう冷めきっている。
紅茶のカップを持ち上げました。一口だけ飲みました。冷たくて、渋くて、おいしくなかったですわ。
でも、あたくしの紅茶ですわ。
カップをテーブルに戻して、ソファに座りました。足を組んで。背筋を伸ばして。お嬢様らしく。
「ふふ……うまく共倒れしてくださいましたわね」
誰もいないリビングで、声に出しました。
「そう……うまく……いきましたわ……」
薄暑い部屋の中で、あたくしは微笑んでいました。
穏やかに。静かに。完璧に。
……暗闇の底で、元の翠香が泣いている気配がしました。もうほとんど聞こえない、消えかけた嗚咽。
可哀想に。あなたの姉妹が壊されるところ、全部見ていたんでしょう?
あなたの体で。あなたの声で。あなたの笑顔で。
ごめんなさいね。
……嘘。ごめんなんて思っていませんわ。
あたくしは立ち上がって、窓の方を見ました。カーテンの隙間から、ほんの少しだけ光が漏れています。
外の世界。三人の翠香が笑っていた世界。朝にお茶を淹れて、夜にハンバーグを作って、寝癖を笑い合っていた世界。
その世界は、もう終わりましたの。
「……ああ、そっちに、戻れたんだ」
呟きました。
誰が。どこに。
答える人は、もうどこにもいませんでした。


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