Dark End -if-
Act.3「嫉妬」
元の翠香が沈んでから、あたくしの視界はとても明瞭になりました。
いえ、「あたくし」という一人称を使うのは少し不正確ですわね。元の翠香も「あたくし」でしたもの。でも、もうあの子は底に沈んでいますから。この体の持ち主は今、あたくしですわ。
元の翠香の記憶も、感情も、口癖も、全部あたくしの中にありますの。お嬢様口調も使えますし、笑い方も、首の傾げ方も、完璧に再現できますわ。だって、あの子の中で育ったんですもの。あの子の一部を食べて大きくなったんですもの。
さて。
自由になった体で、まず何をしましょうか。
答えは最初から決まっていました。
かっこを、観察しました。
この子は面白い。ツッコミ役で、鋭くて、三人の中で一番バランスが取れている。お姉様が柔らかすぎて、元の翠香が気取りすぎている中で、この子だけが「普通」の感覚を持っている。
普通であること。それがかっこの強みであり、同時に弱点ですわ。
普通の子は、異常に対して「理解しよう」とする。排除するのではなく、歩み寄ろうとする。それが善意であり、美徳であり——あたくしにとっては、入り口ですわ。
でも、もっと深いところに、もっと面白いものを見つけましたの。
かっこがお姉様を見る目。
尊敬。信頼。愛情。
その奥に、ほんの薄皮一枚の下に、ちいさなちいさな棘がある。
嫉妬。
お姉様は長女で、社会人で、何だかんだ言って一番しっかりしている。かっこがどれだけツッコんでも、最後に場を収めるのはお姉様。かっこがどれだけ頑張っても、「すーねーちゃんが一番」という構造は変わらない。
かっこはそれを誇りに思っている。すーねーちゃん自慢。うちの長女はすごいんだよ、と。
でも、誇りの裏側には、必ず影があるんですの。
「あたしはすーねーちゃんにはなれない」。
かっこは一度もそう口にしたことはないでしょう。意識すらしていないかもしれない。でも、ある。確実にある。お姉様を見上げるたびに、自分の背丈を測っている。お姉様に褒められるたびに、「まだ届かない」と感じている。
その棘を、あたくしは大事に大事に育てますわ。
かっこが自分からあたくしに近づいてきたのは、都合が良すぎて笑いそうになりましたわ。
「すーねーちゃんのやり方じゃダメだった。外から止めても無駄。だったら中に入って理解しよう」ですって。
まあ。なんて善良な子。
あたくしは「理解してもらえて嬉しい」という顔をしました。元の翠香の表情データを使って。嬉しそうに目を緩めて、声を少しだけ小さくして、「そう言ってくれるの、かっこだけですわ」と。
かっこの目が、わずかに揺れました。
響いた。
お姉様は「前に戻って」と言う。つまり今のあたくしを否定する。でもかっこは「どっちもいーねーちゃんだ」と言ってくれた。今のあたくしを受け入れてくれた。
その構図を作ること。「お姉様は否定する人」「かっこは受け入れてくれる人」。これが大事ですの。
かっこをお姉様から引き離す。物理的にではなく、心理的に。お姉様の心配を「干渉」に、お姉様の善意を「束縛」に感じさせる。
あたくしがやったのは、ほんの少しの言葉遣いだけですわ。
「壁を取っ払いたい」「常識って便利な言葉ですわね、考えなくて済むから」「窮屈だった」。
どれも、かっこの心の柔らかいところに触れる言葉。否定しない。攻撃しない。ただ、「こういう見方もあるよ」と囁くだけ。
かっこは自分から壁を溶かし始めました。あたくしが壊したのではなく、かっこ自身が。
完璧ですわ。
嫉妬の棘に触れたのは、慎重に、慎重に。
直接は触れません。触れたら、かっこは気づいてしまう。「あたし、すーねーちゃんに嫉妬してる?」と自覚してしまう。自覚されたら、処理されてしまう。
だから、周辺を撫でるんですの。
「かっこって、お姉様のこと、すごいと思ってるでしょう?」
「うん。すごいよ、すーねーちゃんは」
「ええ。……でもね、かっこだってすごいんですのよ?」
こういう言葉。
「お姉様はいつもあなたを守ろうとするでしょう? でも、あなただって守れるのに」
こういう言葉。
「お姉様がいなくても、かっこは大丈夫だと思いますわ。だって、こんなに強いんですもの」
こういう言葉。
ひとつひとつは、褒め言葉ですの。励ましですの。何も間違ったことは言っていませんわ。
でも、これらの言葉は全部、同じ方向を向いている。
「お姉様がいなくても」。
お姉様の存在を、少しずつ不要にしていく。お姉様への尊敬を、「依存」に読み替えさせる。お姉様への愛情の裏にある嫉妬を、正当な感情として肯定していく。
かっこは気づいていません。自分の中で何が育っているか。
あたくしが水をやっている棘が、どれだけ太く、どれだけ鋭くなっているか。
ある夜。かっこがあたくしの部屋で天井を見つめながら、ぽつりと言いました。
「……あたし、すーねーちゃんみたいにはなれないんだろうなあ」
来た。
表面に出てきた。嫉妬が、言葉になった。
あたくしは慎重に、慎重に、応えました。
「……なれなくていいんじゃない?」
「……え?」
「お姉様はお姉様。かっこはかっこですわ。……なろうとしなくても、かっこはかっこのままで十分素敵ですのよ」
かっこの目が、じわっと潤みました。
「……そっか」
「ええ。だって、こうしてあたくしの隣にいてくれるのは、お姉様じゃなくてかっこですもの」
一瞬の沈黙。
「……ありがとう、いーねーちゃん」
かっこが、小さく笑いました。
あたくしも笑いました。
暗闇の底で、元の翠香が泣いている気配がしました。微かに。もうほとんど聞こえないけれど。
元の翠香は見ていたんでしょう。あたくしがかっこを操っている過程を。かっこの善意を利用している様を。助けたいのに声が出ない。手が動かない。
かわいそう。
でも、もう関係ありませんわ。
種は蒔きましたの。あとは、育てるだけ。


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