Dark End -if-
Act.2「分岐点」
声は、育ちました。
あたくしの中で。あたくしの栄養を使って。あたくしの感情を吸い上げて。
最初は温度だけの存在だったものが、意味を持ち、言葉を持ち、やがて意志を持ちました。あたくしの行動を「提案」するようになった。「こう言ったらどう?」「これ、やってみない?」。
提案を拒否することもできました。最初のうちは。「それはちょっと」と思えば、声は引き下がりました。
でも、提案に従ったときの心地よさを知ってしまうと、拒否する理由が薄れていくんですの。
声に従う。楽になる。解放される。
声に逆らう。窮屈になる。苦しくなる。
報酬と罰。単純な仕組み。でも、単純だからこそ効く。
キャミソール一枚とショートパンツで部屋を出たとき。
あれは、声の「提案」でした。
――着てみなよ。楽だよ。
あたくしは一瞬だけ抵抗しました。こんな格好でリビングに出るのは、あたくしらしくない。お嬢様口調のあたくしが、下着みたいな格好で姉妹の前に立つなんて。
――「らしさ」って、誰が決めたの?
声が笑いました。
あたくしも笑いました。そうですわね。「らしさ」なんて、あたくし自身が勝手に作った枠でしかない。
リビングに出た。かっこが固まった。お姉様の顔が強張った。
「……いーねーちゃん、その格好」
「あら、だめ? ちょっとハレンチかしら」
これはあたくしの言葉でした。声の提案ではなく、あたくし自身が、ハレンチという言葉を楽しんで使いました。
声はただ、あたくしの奥で満足そうに微笑んでいました。
お姉様が叫びました。「前の翠香はそんなこと言わなかった」と。あたくしの肩を掴んで、必死に。
掴まれた瞬間。
あたくしの中で、何かが揺れました。
お姉様の手の温度。強く握りすぎて震えている指。目に浮かんだ涙。
これは、あたくしの大好きなお姉様で。あたくしのことを心配してくれていて。あたくしを守ろうとしてくれていて。
あたくしは——元のあたくしは——泣きそうになりました。お姉様、ごめんなさい。あたくし、おかしくなっている。助けてほしい。何かがあたくしの中にいるの。
口を開こうとしました。
声が、遮りました。
――大丈夫。今のあなたが一番あなたらしいよ。
口が勝手に動きました。
「お姉様。そんなに必死にならなくても、いいんですのよ」
優しい声。あたくしの声。でもあたくしが選んだ言葉じゃない。
お姉様の手が、震えながら離れていきました。
あたくしは内側で叫んでいました。違う。今の、あたくしじゃない。お姉様、聞いて。あたくしの中に何かがいるの。
でも声は、もうあたくしの叫びを外に出しませんでした。
その夜。
お姉様が泣きながら部屋に戻ったあと、リビングにかっこと二人。
かっこが聞きました。「本当に、楽しい?」と。
あたくしの口が「もちろんですわ」と答えようとした瞬間。
中の奥の奥、声すら届かない深い場所から、元のあたくしが——最後の力を振り絞って——浮上しました。
顔から表情が消えました。声の支配が一瞬だけ途切れて、素のあたくしが水面に顔を出した。
かっこと目が合いました。
今しかない。
口を開きました。
「かっこ」
声が違う。お嬢様口調じゃない。気取りも余裕もない。怯えた、小さな声。
「……たすけ」
た。す。け。
最後の一文字。「て」が喉まで来ていました。舌の上に乗っていました。あと一瞬。あと半秒。あと、ほんの少し――
声が、あたくしを掴みました。
比喩ではなく。思考の首根っこを掴むように。意識の足首を引っ張るように。あたくしの「浮上」を、力ずくで止めました。
沈む。
暗い水の中に引きずり込まれる。水面が遠くなる。光が小さくなる。かっこの顔が、丸い光の中で歪んで、消えていく。
あたくしは手を伸ばしました。声にならない声で叫びました。
助けて。
お願い。
あたくしを。
水面が閉じました。
暗い。
暗くて、静かで、何もない。
ここは、あたくしの中の一番深い場所。声がいた場所。声が住んでいた暗闘の底。
あたくしと声の立場が、入れ替わりました。
今、表にいるのは声。あたくしの体を使って、あたくしの顔で笑って、あたくしの言葉で喋っている。
あたくしは、ここにいる。暗闇の中。沈められて。封じられて。
上の方で、あたくしの声が聞こえます。あたくしの声を使った、別のものの声。
「……あら。何でもありませんわ。おやすみなさい」
かっこに向けて、完璧な笑顔で。
部屋のドアが閉まる音。
あたくしは暗闇の中で、蹲りました。
助けは来ない。もう来ない。
「たすけて」の「て」は、永遠に発音されることのない文字になりました。
――ここで、世界は分岐しました。
本編の世界では、やがてノイズが走り、奇跡が起き、あたくしたちは「戻された」。
でも、もし。
もし、その奇跡がなかったら。
もし、声がもっと賢く、もっと残酷で、もっと完璧だったら。
沈められたあたくしは、暗闇の中で何を見たでしょう。
声があたくしの体で何をしたか。
かっこに何をしたか。
お姉様に、何をしたか。
あたくしは全部見ていました。
暗闇の底から。声のない叫びを上げながら。
全部。


![アイキャッチ[共感は救いか、侵食か Dark end -if-]](https://you-takai.com/wp-content/uploads/2026/06/catch-salvation-or-invasion-dark.jpg)
コメント