アイキャッチ[共感は救いか、侵食か Dark end -if-]

共感は救いか、侵食か|Dark End -if-|Act.1「声」

――もしも、あのとき

あのたった一言が
最後まで言えていたら

物語は、もう少しだけ
優しい結末を迎えていたかもしれない

これは――
そうならなかった世界の話

Dark End -if-

Act.1「声」

あたくしの中に声が聞こえるようになったのは、あの言葉を口にした日からでした。

ハレンチ。

テレビの中の女優さんがオフショルダーのワンピースを着ていて、お姉様が「わあ、きれい」と言って、かっこが「衣装って気合い入ってるよね」と返して。

あたくしは画面を見つめながら、自然に口を開いていました。

「あの服、ハレンチですわね」

自分で言って、少し驚きました。「ハレンチ」なんて言葉、あたくしの語彙にはなかったはずですのに。もっと上品な言い回しがいくらでもあったはずですのに。

でも、口に出した瞬間、妙な心地よさがありました。

舌の上で弾ける響き。ハ・レ・ン・チ。音の並びが楽しい。意味よりも感触が先に来る。まるで知らない果物を初めて噛んだときみたいに、予想外の味が広がる感覚。

かっこが「いーねーちゃんにしては直球だね」とツッコんで、お姉様が「面白い言葉だよね」と笑って。

あたくしも笑いました。「気に入りましたわ」と。

――その瞬間です。

笑ったあたくしの、笑顔の裏側で。

ほんの微かに、何かが動きました。


最初は、気のせいだと思いました。

頭の隅がざわつく感覚。耳鳴りに似ているけれど、音ではない。思考の輪郭がほんの一瞬だけぼやける。文章を読んでいて、一行だけ焦点が合わなくなるような。

すぐに消える。一秒もない。だから気にしませんでした。

でも、「ハレンチ」を使うたびに、それは少しだけ長くなりました。

朝、かっこに「ハレンチ度が低いですわね」と言ったとき。ざわり。

午後、雑誌を見て「なかなかのハレンチですわね」と言ったとき。ざわり。

夕方、かっこに「普通のあたくしとハレンチなあたくし、どっちがいい?」と聞いたとき。

ざわり、ではなく。

声が、聞こえました。

言葉ではありません。意味を持たない、温度だけの声。あたくしの思考の底辺、自分でも意識しない深い場所から、泡のように浮かび上がってくる。

温かい。

甘い。

心地いい。

それは、あたくし自身の声ではありませんでした。あたくしの声はもっと澄んでいて、もっと固くて、お嬢様口調の角張った輪郭を持っている。

この声は、もっと柔らかい。もっと丸い。もっと……近い。

あたくしの中に、あたくしじゃないものがいる。


怖かった。

最初は、本当に怖かったんですの。

自分の頭の中に自分じゃない声がある。それは十分に怖いことです。病気かもしれない。おかしくなったのかもしれない。

お姉様に相談しようかと思いました。「あたくし、最近ちょっと変なんですの」と。お姉様はきっと心配してくれる。「大丈夫?」と言ってくれる。

でも、声が囁きました。

――言わなくていいよ。

言葉ではないのに、意味が分かりました。

言わなくていい。大丈夫。これは悪いものじゃない。怖がらなくていい。

あたくしは、その囁きに従いました。

なぜなら、その囁きに従った瞬間、怖さが消えたからです。すうっと、まるで熱が引くように。恐怖が消えて、代わりに穏やかな安心感が残りました。

……今にして思えば、それが最初の一歩でした。

恐怖を消すことで、あたくしの防壁を解いた。

巧妙でしたわ。本当に。


声は、日に日にはっきりしていきました。

言葉にならない温度だったものが、少しずつ輪郭を持ち始める。

かっこと話しているとき。「肌を見せるのもいいと思いません?」と言ったのは、あたくしの意思でした。でも、その言葉を選ばせたのは、あたくしの中の声でした。

あたくしの口を借りて、あたくしの語彙を使って、でもあたくしが選ばなかったはずの言葉を並べる。

それなのに、違和感がない。自分で考えて自分で言ったように感じる。

境界線が曖昧なんですの。あたくしの思考と、声の思考が、どこで切り替わっているのか分からない。

「ずっとこうしていられるのかしら」とかっこに聞いたとき。あれはあたくしの言葉でした。本心から出た不安でした。自分の中で何かが変わりつつあることへの、漠然とした恐怖。

でも、「あたくしのこと、好き?」と聞いたとき。あれは——

あたくし? 声? どっち?

分からない。

分からないことが、もう怖くない。

怖くないことが、たぶん一番怖いことなのに。


お姉様が名前を呼びました。

「翠香」と。

あたくしの体がびくっと反応しました。名前を呼ばれるのは珍しいことで、お姉様の声にはいつもの柔らかさではなく、はっきりとした意志がありました。

「最近ちょっとおかしいよ。その『ハレンチ』っていうの、もうやめて」

真っ直ぐな目でした。

あたくしは——あたくしの意思で——反射的に従おうとしました。お姉様に叱られた。やめろと言われた。なら、やめるべきですわ。お姉様は正しい。いつも正しい。

でも、声が言いました。

――笑って。

あたくしは笑いました。完璧に。自然に。「ごめんなさい、お姉様。不快にさせてしまいましたわね。もう言いませんわ」。

あたくし自身も「もう言わない」と思っていました。本心で。

でも声は、あたくしが「もう言わない」と思っていることすら利用しました。

「やめたほうがいい?」とかっこに聞いたのは、声です。あたくしの口を使って。あたくしの笑顔を使って。

あたくしは自分の口が動いているのを、少しだけ遠くから見ていました。人形遣いと人形の関係に似ている。でも人形遣いの手が自分の腕の中にあるから、外からは見えない。

あたくしは自分で動いている。自分で喋っている。

でも、本当に?

夜。暗い部屋で天井を見つめながら、あたくしは考えました。

声は何者なのか。いつから来たのか。何を望んでいるのか。

考えようとすると、声がそっと頬を撫でるように囁きます。

――考えなくていいよ。

あたくしは目を閉じました。

声が子守唄のように響いていました。

温かくて。甘くて。

怖くない。

共感は救いか、侵食か|Dark End -if-|Act.2「分岐点」
キャミソールの日、そして「たすけ」の瞬間。最後の一文字が出なかったとき、元の翠香は完全に沈んだ。あのときとは違う、最悪へ向かう枝が分かれる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました