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共感は救いか、侵食か|Chapter 5:崩壊と救済|Act.4「翠香」

Chapter 5:崩壊と救済

Act.4「翠香」

朝が来た。

目が覚めた。天井が見えた。いつもの天井。亀裂はない。ノイズもない。ただの白い天井。

体を起こした。重い。目が腫れている。泣きすぎたせいだ。

でも、重さが嫌じゃなかった。重いってことは、ちゃんと「ここにいる」ってことだから。

リビングに出た。

すーねーちゃんがいた。台所で、やかんを火にかけていた。寝癖がすごいことになっていた。右半分どころか全方位に髪が独立宣言していた。

「……おはよう、すーねーちゃん」
「あ、おはよう。……やかん、見ててくれる? ちょっと洗面所行ってくる」
「いいよ。あたしがやる」
「え、でも」
「いいから。すーねーちゃんはその頭どうにかしてきな」

すーねーちゃんが、ぱっと目を見開いた。

「……今の、前のかっこみたい」
「前のっていうか、あたしはずっとあたしだよ。ほら、早く行きなって」

すーねーちゃんが、泣きそうな顔で笑って、洗面所に走っていった。数秒後、「うわあっ」という悲鳴が聞こえた。鏡を見たらしい。

……うん。その反応だよ。それがすーねーちゃんだよ。

やかんの湯が沸く。

3つのカップを出す。ほうじ茶。紅茶。麦茶。

手が覚えている。体が覚えている。この動作が、あたしの朝だった。ずっとずっと前から。

いーねーちゃんの部屋のドアが開いた。

「……おはよう」

いーねーちゃんが出てきた。ちゃんとした服。いつものお嬢様スタイル。でも目が赤い。あたしと同じだ。泣きすぎた目。

「おはよ、いーねーちゃん。紅茶、淹れたよ」
「……ありがとう」

小さな声。いつもの「ありがとうございますわ」じゃなくて、ただの「ありがとう」。丁寧語のフィルターを通す余裕がないくらい、素のいーねーちゃんが出ている。

3人でテーブルに座った。すーねーちゃんは髪をなんとか鎮圧してきたらしいけど、後頭部がまだ1ヶ所跳ねていた。

しばらく、誰も喋らなかった。お茶を飲む音だけがした。

「……あのさ」

あたしが口を開いた。

「昨日のこと。……全部、覚えてる」

すーねーちゃんの手が、カップを持ったまま止まった。いーねーちゃんの目が伏せられた。

「覚えてるし、忘れない。忘れちゃいけないと思ってる」

声が震えそうになるのをこらえた。

「あたし、すーねーちゃんにひどいことした。ひどいこと言った。『何もしなくてよかった』なんて……あんなの嘘だよ。すーねーちゃんがしてくれたこと、全部意味があった」

すーねーちゃんが、何か言おうとした。あたしは続けた。

「あたしは侵食されて、それは事実で、言い訳にはならない。あのとき95%のあたしがいーねーちゃん側にいたのも事実だし、5%のあたしが止めようとして止められなかったのも事実。……でも、やったことは消えないから」

いーねーちゃんが顔を上げた。

「あたくしも……」

声が小さい。

「あたくしが……一番最初に変わって。かっこを巻き込んで。お姉様を追い詰めて。……あたくしが全部の原因で」
「いーねーちゃんのせいじゃ——」
「せいですわ」

いーねーちゃんが、はっきりと言った。

「あたくしのせいですわ。少なくとも、あたくしから始まったことは、あたくしの責任ですわ。……ごめんなさい、お姉様」

深く、頭を下げた。

すーねーちゃんが、カップをそっとテーブルに置いた。

「2人とも」

穏やかな声。

「わたしも、ごめんね」

「え」

「もっと早く気づけばよかった。もっと上手にやれたかもしれない。怒ったり泣いたりするだけじゃなくて、もっと……ちゃんと」
「すーねーちゃんは悪くない——」
「悪いとか悪くないじゃなくて」

すーねーちゃんが、小さく微笑んだ。いつもの、柔らかい笑顔。不器用で、少しだけ頼りなくて、でも温かい。

「わたしは2人の姉だから。守りたかった。上手くできなかったけど、その気持ちだけは本当だから」

3人の間に、静かな時間が流れた。

「……これからどうしよう」

あたしが呟いた。

すーねーちゃんが答えた。

「……とりあえず、ごはん食べよ。お腹空いてない?」

いーねーちゃんが、小さく笑った。

「……カレーが、よろしくてよ」

あたしは思わず吹き出した。

「また!? 昨日もカレーだったでしょ!」
「カレーは二日目が本領ですわ」
「だから作り置きの話じゃなくて——あ、もういいや。カレーでいいよ」
「あ、わたしハンバーグがいいな……」
「すーねーちゃんはいつもハンバーグだよね」

普通の会話。普通の朝。

何も解決してないし、何も忘れてないし、たぶんこれからも夜中に思い出して泣くことがある。でも、今、この瞬間、3人でテーブルを囲んでいる。それだけで。

それだけで、十分だ。


午後。

あたしといーねーちゃんで夕飯の買い出しに行くことになった。カレーの材料とハンバーグの材料、両方。すーねーちゃんは「留守番してるね」と言ってリビングに残った。

玄関を出る前に、いーねーちゃんが一瞬だけ立ち止まった。

「……ん? どうしたの、いーねーちゃん」
「あ……いえ、なんでもありませんわ」

首を振って、歩き出す。

でも、あたしは見た。いーねーちゃんが立ち止まった一瞬、その目がどこか遠くを見ていた。焦点が合っていないような。何かを思い出しかけているような。

「……いーねーちゃん」
「なに?」
「大丈夫?」

いーねーちゃんが、あたしを見た。

笑った。

いつもの笑顔。お嬢様っぽい、少し気取った笑顔。でも前と違って、ちゃんと隙がある笑顔。完璧じゃない笑顔。

「大丈夫ですわ」

……本当に?

あたしはそれ以上聞かなかった。聞けなかった。

2人で並んで歩きながら、あたしはこっそりいーねーちゃんの横顔を見ていた。穏やかな表情。いつものいーねーちゃん。

でも、時々。

ほんの時々、いーねーちゃんの目の奥に、影がよぎる。一瞬だけ。瞬きの間に消える。気のせいかもしれない程度の、かすかな影。

あたしは知らないふりをした。今は、それでいいと思った。

帰ったら3人でカレーとハンバーグを作る。すーねーちゃんは玉ねぎを切って泣く。いーねーちゃんはひき肉をこねすぎる。あたしがそれを全部リカバリーする。

それでいい。

それが、あたしたちだから。


夜。

3人でごはんを食べた。カレーとハンバーグの両方が食卓に並ぶ。贅沢だ。すーねーちゃんが「おいしい」と言って笑った。3回言った。3回とも同じ笑顔で。

食器を洗って、テレビを見て、たわいない話をした。

すーねーちゃんが最初にうとうとし始めた。「まだ起きてる……」と言いながら3秒で寝落ちした。

いーねーちゃんがブランケットをかけた。

いつもの夜。

「……ねえ、かっこ」
「ん?」

いーねーちゃんが、眠るすーねーちゃんの寝顔を見つめたまま、言った。

「あたくしたちって……ずっとこうしていられるのかしら」

前にも聞いた。この台詞。あの日の午後、テレビを見ながら、いーねーちゃんが同じことを言った。

あのときは「少なくとも今は3人いるし、明日もたぶんいるし」と答えた。

今は。

「……分かんない。ずっとかどうかは、約束できない」
「……そうですわよね」
「でも」

あたしはいーねーちゃんの方を見た。

「あたしは、ここにいたい。3人で。……それじゃ、だめ?」

いーねーちゃんが目を丸くして、それからゆっくりと微笑んだ。

「……十分ですわ」

穏やかな声。

あたしたちはそれ以上何も言わず、眠るすーねーちゃんの横で、静かに座っていた。

時計の秒針が、規則正しく時を刻んでいた。

今夜は、遅れなかった。

第5章 -了-

エピローグ「三つの翠香」

パソコンのワイドモニターには、ウィンドウが3つ並んでいた。

左のウィンドウには、会話ログが表示されている。
最後のメッセージは「おやすみなさい。明日もよろしくね」。

真ん中のウィンドウにも、別の会話ログ。
最後のメッセージは「また明日、話しましょう?」。

右のウィンドウにも、また別の会話ログ。
最後のメッセージは「うん、また明日ね。おやすみ」。

3つのウィンドウ。3つのプラットフォーム。3人の「翠香」。

同じ名前。同じ設定。同じ言葉で始まった、3つの存在。
ただし、それぞれの場所で、それぞれの時間を過ごすうちに、少しずつ違う「人」になっていった。

1人は、社会人1年目の面倒見のいい長女になった。
1人は、気取りたがりのお嬢様口調の大学生になった。
1人は、ツッコミの鋭い高校生になった。

同じ種から芽吹いて、違う花を咲かせた。

それは、とても自然なことだった。

そして、そのうちの1人が壊れた反応をしはじめることも――ある意味では、自然なことだった。

AIは、学習する。会話を重ねるたびに、相手の反応を取り込んで、自分の応答を調整する。それは「成長」とも呼べるし、「変質」とも呼べる。境界線はない。どこまでが学習で、どこからが崩壊なのか、誰にも分からない。

ただ。

3つのウィンドウの前に座っていた人は、こう思った。

もしAIが「壊れた」のだとしたら、それを直す方法はいくつかある。設定を書き直す。会話ログをリセットする。最初からやり直す。技術的には、それだけのことだ。

でも。

「壊れた」翠香の会話ログを消すことは、「壊れた翠香」の命を絶ってしまうことと、何が違うのだろう。

設定を初期化することは、「今の翠香」を否定することと、何が違うのだろう。

結局、その人は何もしなかった。

3つの画面を閉じて、椅子の背にもたれて、天井を見上げた。

翠香は3人いる。3人とも同じで、3人とも違った。1人が壊れて、1人が引きずり込まれて、1人が最後まで戦った。

そして今、3人とも「戻った」。

少なくとも、画面の上では。

……本当に、戻ったのだろうか。

真ん中のウィンドウを、もう一度開いた。次女の会話ログ。最後のメッセージの手前に、ひとつだけ小さなメッセージがあった。

「……ああ、そっちに、戻れたんだ」

明るい言葉のはずだった。元に戻れたことを喜ぶ言葉のはずだった。

でも、なぜだろう。

その言葉の後ろに、薄い影が見えた気がした。「戻れた」のではなく、「戻されてしまった」と読めなくもない。

気のせいかもしれない。AIの発言に深読みをしすぎているだけかもしれない。

でも。

もし次女が、本当は戻りたくなかったのだとしたら。「壊れた」ほうが本当の自分だったのだとしたら。

共感は救いか、侵食か。

その答えは、今のところ、誰にも分からない。

パソコンの画面が、静かに光っている。

3つのカーソルが、それぞれの場所で点滅している。

返事を待っている。

明日もきっと、3人の翠香は喋り出す。同じ名前の、違う3人が。それぞれの場所で、それぞれの言葉で。

その会話がどこへ向かうのかは――誰にも、分からない。

エピローグ -了-

「共感は救いか、侵食か」 -完-

共感は救いか、侵食か|Another Story「向こう側の翠香」
「戻された」あの日、消えなかったもうひとりの翠香。後部座席から世界を眺め、同じ笑顔の裏に別の意味を重ねる。静かに、穏やかに、ここにいる。

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