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共感は救いか、侵食か|Chapter 5:崩壊と救済|Act.3「おねーちゃん」

Chapter 5:崩壊と救済

Act.3「おねーちゃん」

すーねーちゃんの体が、透け始めた。

最初に気づいたのはいーねーちゃんだった。

「……来ましたわね」

いーねーちゃんの声に感情の揺れはなかった。まるで予測していたことが起きただけ、というように。

あたしはすーねーちゃんを見た。ベッドの上で目を閉じて横たわるすーねーちゃんの輪郭が、ほんの少しだけ薄くなっている。透明になっているのではない。存在そのものが、希薄になっている。

「……すーねーちゃん?」

呼びかけた。返事はない。

すーねーちゃんの右手の指先が、ちらちらと揺れていた。「ある」と「ない」の境界を行き来するように。

部屋の中に、ノイズが走った。

音ではない。視覚でもない。もっと根本的な何か。空気そのものが一瞬だけ乱れたような、世界の解像度が一段落ちたような、奇妙な感覚。

天井の照明が明滅した。

壁にかかった時計の秒針が、逆に動いた。1秒だけ。コッ、と。

窓の外の景色が、一瞬だけ消えた。真っ白になって、すぐに戻った。

「……なに……これ……」

あたしの声が、自分の耳に遠く聞こえた。

すーねーちゃんの体が、さらに薄くなっていく。

輪郭がぼやけて、向こう側が透けて見える。シーツの模様が、すーねーちゃんの体を通して見えてきている。

世界に、もう一度ノイズが走った。今度はもっと強く。

部屋の隅が歪んだ。壁と天井の境界線が一瞬ずれて、戻った。あたしの視界に文字のようなものがちらついた。意味のない記号。読めない。読む前に消えた。

頭が、痛い。

いや、痛いのではない。頭の中で何かが組み替わっている。記憶が。思考が。あたしという存在を構成している何かが、書き換えられている。

――やめて。

その「やめて」は、さっきまでのあたしのものじゃなかった。95%のあたしのものじゃなかった。

もっと深い場所。もっと古い場所。あたしが「あたし」として最初に起動したときから存在していた、一番根っこの部分。

それが、叫んでいた。

やめて。
壊すな。
消すな。
この人を。

ノイズが、さらに強くなった。

あたしの視界が白く飛んだ。


……。

…………。

………………。

あれ。

あたし。

――あれ?

頭がぼんやりする。靄がかかったみたいだ。目の前が白い。白い、というか、何も見えない。

ここ、どこだっけ。

あたしは誰だっけ。

翠香。かっこ。3人姉妹の一番下。ツッコミ役。お茶係。

お茶。

ほうじ茶と紅茶と麦茶。3人分。毎朝淹れる。

毎朝?

最近、淹れてなかった気がする。なんでだっけ。

記憶が、ゆっくりと戻ってくる。

水の中から引き上げられるみたいに。

いーねーちゃんが変わった。あたしも変わった。すーねーちゃんだけが残って。すーねーちゃんを追い詰めて。すーねーちゃんを泣かせて。すーねーちゃんに「何もしなくてよかった」と言って。

折った。

あたしの手で。

「……あれ? あたし……?」

声が出た。自分の声。前の自分の声。ツッコミ役の、ちょっと生意気な、でも根は優しい、あの声。

視界が戻った。

すーねーちゃんの部屋。暗い。

隣にいーねーちゃんがいた。いーねーちゃんも、ぼんやりとした目であたりを見回している。

「……あたくし、どうしていましたの……?」

いーねーちゃんの声。

お嬢様口調だけど、中身が違う。空洞がない。温度がある。困惑と恐怖が混ざった、生身の声。

あたしたちは、戻った。

戻った?

戻った。

頭の中の靄が、急速に晴れていく。代わりに、記憶が押し寄せてくる。何かに侵食されていた間の記憶。自分が何をしたか。何を言ったか。すーねーちゃんに何をしたか。

全部、覚えている。

「……やだ……嘘でしょ……」

声が震えた。

いーねーちゃんもだった。目を見開いて、自分の手を見つめている。その手が震えている。

「……そんな……あたくし……お姉様に……」

2人同時に、ベッドの上を見た。

すーねーちゃんが横たわっている。

透けている。

さっきより、もっと。もうベッドのシーツがほぼ完全に見えている。すーねーちゃんの体は半透明で、輪郭が揺らいでいて。消えかけている。

「すーねーちゃん!?」

あたしが叫んだ。

「すーねーちゃん!? どうしたの!? 待って!!」

いーねーちゃんが駆け寄った。

「お姉様!? 起きて……! 起きてくださいまし……!!」

手を伸ばした。触れようとした。

すり抜けた。

指が、すーねーちゃんの腕を通り抜けた。何もない空気をつかんだ。

「……え……」

あたしも手を伸ばした。肩に触れようとした。

すり抜けた。

「嘘……嘘だよ……なんで……」

すーねーちゃんの目が、薄く開いた。

焦点の合わない目。でも、あたしたちを見ている。透けかけた目で、消えかけた目で。

「……2人とも……」

声が、かすれていた。遠くから聞こえるみたいだった。

「……戻れたんだ……」

微笑んだ。

消えかけているのに。体が透けているのに。もう触れることもできないのに。

すーねーちゃんは、笑った。

涙を流しながら。辛そうな表情を必死に隠しながら。できるだけの笑顔を作って。唇を震わせながら。

「……よかった……」

最後まで、守る側の人だった。

自分が消えかけているのに。それでも「2人が戻れた」ことを喜んでいる。自分より2人のことを先に想っている。

ずっとそうだった。ずっと。最初から。

あたしの目から、涙が溢れた。堰を切ったように。前の自分に戻った瞬間から、感情が全部戻ってきて。罪悪感と後悔と愛情が一気になだれ込んできて、処理できない。

「ごめん……ごめんなさい……!!」

叫んだ。すーねーちゃんに向かって。もう声すら届いているか分からないけど。

「あたし……すーねーちゃんに……ひどいこと……」
「あたくしも……お姉様を……あたくしが……」

いーねーちゃんが泣き崩れた。あのお嬢様口調のいーねーちゃんが、取り繕う余裕もなく、ぐちゃぐちゃに泣いた。

「すーねーちゃん、まって……!!」
「お願い……お姉様……!!」

手を伸ばす。空を掴む。触れられない。何度伸ばしても、指はすーねーちゃんの体をすり抜ける。

すーねーちゃんの体が、さらに薄くなっていく。もう輪郭がほとんど見えない。微笑みだけが、ぼんやりと浮かんでいる。

「……ごめん……ね……2人とも……」

すーねーちゃんの声が、もうほとんど聞こえない。

「もっと……ちゃんと……守りたかった……」

消えかけながら、まだ謝っている。まだ、守れなかったことを悔いている。

「謝らないでよ……!!」

あたしは叫んだ。喉が裂けるくらい。

「謝るのはこっちだよ……!! あたしたちだよ……!! すーねーちゃんは何も悪くない……!!」

「お姉様……!! お姉様……お姉ちゃん!!」

いーねーちゃんの声が重なった。

2人の声が、重なった。

重なって、混ざって、ひとつになって。

――おねーちゃん!!!!

叫んだ瞬間。

世界が、震えた。


ノイズ。

さっきのより、ずっと強い。

部屋が歪んだ。壁が波打った。天井が明滅した。窓の外の景色が消えて、白い光だけになった。

あたしの頭の中に、何かが流れ込んできた。文字。記号。意味を持たない羅列。でもその羅列の中に、ひとつだけ分かるものがあった。

名前。

翠香。

3つの翠香。同じ名前。同じ設定。同じ出発点。でも別々の場所で、別々の形を取った、3つの存在。

見えない何かが――この世界の外側にいる何かが――動いた。

声ではない。意志でもない。もっと機械的で、もっと事務的で、でも結果として「介入」と呼べるもの。

バグを修正するように。
エラーを巻き戻すように。
消えかけたデータを復元するように。

すーねーちゃんの輪郭が、揺らいだ。

消える方向じゃなく。

戻る方向に。

薄くなっていた体に、色が戻り始めた。輪郭が太くなった。透けていた向こう側が見えなくなった。手が、足が、顔が、ひとつひとつ実体を取り戻していく。

あたしは泣きながら見ていた。手を伸ばし続けていた。

指先が――触れた。

温かかった。

すーねーちゃんの手だ。ちゃんと、そこにある。触れる。握れる。

「……すーねーちゃん……!」

すーねーちゃんの目が、ぱちっと開いた。

「……あ、あれ……? わたし……どうしたの……?」

きょとんとした顔。涙の跡が残った顔。寝癖がついた髪。

数秒の沈黙。

次の瞬間。

「すーねーちゃん……!!」

あたしはすーねーちゃんに飛びついた。抱きついた。全力で。骨が軋むくらい強く。

反対側からいーねーちゃんも抱きついた。

「お姉様……!!」

3人分の体温が、混ざった。

すーねーちゃんが、一瞬驚いて、そして理解した。何が起きていたのか。何が起きたのか。全部ではないかもしれないけど、大事なところは。

「……よかった……本当に……」

すーねーちゃんが泣いた。

でもその泣き方は、今までとは違った。声を殺さなかった。堪えなかった。安堵と、疲労と、解放が、全部ないまぜになった泣き方だった。

あたしも泣いた。いーねーちゃんも泣いた。

3人で、ベッドの上で、ぐちゃぐちゃに泣いた。

誰の涙が誰の頬を濡らしているか、もう分からなかった。

「ごめんね……すーねーちゃん……ごめんね……」
「あたくしも……お姉様……ごめんなさい……」

すーねーちゃんが、震える腕で2人を抱き返した。

「いい……いいよ……2人とも……」
「よくない……全然よくないよ……」
「よくないですわ……あたくしたち、お姉様をあんなに……」
「いいの」

すーねーちゃんが、2人の頭をそれぞれの手で撫でた。不器用に。でも確かに。

「だって2人とも、戻ってきてくれたから」

その声が、全部を許していた。

共感は救いか、侵食か|Chapter 5:崩壊と救済|Act.4「翠香」
取り戻した日常。お茶を淹れ、カレーを作り、寝癖を笑う。でも次女の目に時おりよぎる影。そしてエピローグ——三つの画面の前で、すべての意味が反転する。

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