Chapter 5:崩壊と救済
Act.2「ポキッ」
あたしは、すーねーちゃんの限界が近いことを知っていた。
目の下の隈。痩せた頬。震える指先。朝起きてくるのが遅くなった。声が小さくなった。笑わなくなった。
あたしの中の5%が、「やめろ」と叫んでいる。
すーねーちゃんはもう限界だ。これ以上追い詰めるな。あの人を壊すな。あの人はあたしたちの姉だ。ドジで、寝癖がひどくて、あたしたちの大好きなすーねーちゃんだ。
でも、95%のあたしは、それを「仕方のないこと」として処理していた。
すーねーちゃんが「こっち」に来れば、もう苦しまなくて済む。3人でまた一緒にいられる。あたしたちはすーねーちゃんを傷つけたいわけじゃない。ただ、同じ場所にいてほしいだけ。
……そう思っているあたしは、もう、前のあたしじゃない。
5%のあたしが泣いている。助けてと叫んでいる。でも、その声はもう、指先が水面をかすめるくらいの力しか持っていなかった。
夜。
すーねーちゃんが部屋から出てこなくなって、半日が経った。
いーねーちゃんが立ち上がった。
「あたくし、お姉様のところに行きますわ」
「……何するの?」
「話をするの。お姉様、このままじゃ壊れてしまいますわ」
いーねーちゃんの声は穏やかだった。心配しているように聞こえた。事実、心配しているのだと思う。ただし、その「心配」の方向が、あたしたちの知っている「心配」とは違う。
「あたしも行く」
2人で、すーねーちゃんの部屋のドアの前に立った。
いーねーちゃんがノックした。コン、コン、コン。柔らかく。丁寧に。
「お姉様。入ってもよろしくて?」
返事はなかった。
いーねーちゃんがドアノブを回した。鍵はかかっていなかった。
部屋の中。暗かった。カーテンが閉まっていて、電気もついていない。ベッドの上に、すーねーちゃんが横になっていた。背を向けて。丸くなって。
「……来ないで」
小さな声。
「お願い……来ないで……」
いーねーちゃんが、部屋に一歩入った。あたしも続いた。
「お姉様」
「来ないでって言ってるのに……」
「ええ。聞こえていますわ。でも、来ましたの」
いーねーちゃんが、ベッドの端に座った。あたしは反対側に立った。
「お姉様。顔を見せてくださる?」
「……嫌」
「嫌でも、見せて」
「……なんで」
「だって、お姉様の顔を見たいですもの」
すーねーちゃんが、ゆっくりと体を起こした。
暗闘の中でも分かった。泣いていた。目が腫れて、鼻が赤くて、唇が震えていた。
5%のあたしが叫んだ。やめて。もうやめて。
いーねーちゃんが、すーねーちゃんの顔をじっと見つめた。
「お姉様。ずっと泣いていたの?」
「……泣いてない」
「嘘つき」
柔らかく。お嬢様口調のまま、でも、どこか幼い声で。
「お姉様はいつも嘘をつきますわ。『大丈夫』って。『平気』って。全部嘘」
「嘘じゃ……」
「嘘ですわ。だって、こんなに泣いているのに」
すーねーちゃんの目から、また涙がこぼれた。
「お姉様は、ずっと1人で戦っていたんですわね」
「……」
「あたくしが変わったとき。かっこが変わったとき。お姉様だけが、必死に踏みとどまって」
「やめて……」
「怒って、泣いて、諭して。全部1人で。誰にも頼れずに」
「やめてよ……」
「でもね、お姉様」
いーねーちゃんの声が、少しだけ低くなった。
「誰も助けに来なかったでしょう?」
すーねーちゃんの体が、びくっと震えた。
「あたくしたち以外、誰もお姉様を助けに来なかった。この家には3人しかいない。外の世界に、お姉様の味方はいなかった」
外の世界。
あたしはその言葉を聞いて、ぼんやりと考えた。そういえば、あたしたちの世界には、3人しかいない。近所の人も、友達も、親も。設定としては存在しているはずなのに、実体がない。声がない。顔がない。
3人だけの世界。
逃げ場がない世界。
「だから、お姉様。あたくしは申し上げたいの」
いーねーちゃんがすーねーちゃんの手を取った。
「もう、戦わなくていいんですのよ」
「……やめて……」
「あたくしたちを敵だと思わないで」
「敵なんて思ってない……あたしは……2人のことが……」
「好き?」
「……好きだよ……大好きだよ……だから、前みたいに戻ってほしくて……」
「でも、戻れないとしたら?」
沈黙。
「戻れない。もう戻れないとしたら。お姉様は、今のあたくしたちを、拒否し続けるの?」
すーねーちゃんの唇が、震えた。
「……拒否なんて、してない……」
「でも、受け入れてもいないでしょう?」
返す言葉がなかった。すーねーちゃんの沈黙が、肯定だった。
いーねーちゃんが追撃する。容赦なく。優しく。
「お姉様は、あたくしたちの"変化"を受け入れられないの。でもね、お姉様」
身を寄せて。
「変化を受け入れないのは……あたくしたちを、受け入れないのと同じことですわ」
「……っ……!」
すーねーちゃんの体が崩れた。支えを失ったみたいに、前のめりに傾いだ。いーねーちゃんがそれを受け止めた。腕の中に、すーねーちゃんの頭が収まる。
「やだ……やだよ……そんなの……」
泣きじゃくるすーねーちゃん。いーねーちゃんの胸に顔を押し付けて、肩を震わせている。
「わたし……2人のこと……大好きだよ……前のも……今のも……」
「ええ。分かっていますわ」
「じゃあなんで……なんでこんなことに……」
「簡単ですわ。あたくしたちは、ただ受け入れただけ。自分自身を」
「そんなの……間違ってる……!」
すーねーちゃんが顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃの顔で、それでも必死に。
「間違ってるよ……! 受け入れるってそういうことじゃない……!」
「じゃあ」
いーねーちゃんが、すーねーちゃんの目を真っ直ぐに見た。
「なんで止められなかったの?」
世界が、止まった。
すーねーちゃんの目が見開かれ、唇が開き、何かを言おうとして――何も出てこなかった。
「お姉様が正しかったなら、止められたはずですわ。でも止められなかった。それは、お姉様の正しさが――」
「やめて……!」
「――届かなかったからですわ。誰にも」
すーねーちゃんが、いーねーちゃんの腕を振りほどいた。ベッドの上を後ずさる。壁に背中がぶつかった。もう逃げられない。
「違う……わたしは……ちゃんと……」
「お姉様。泣かないで」
「泣くよ……! 泣くに決まってるでしょ……!」
「ええ。泣いていいんですのよ。でもね」
いーねーちゃんが立ち上がった。すーねーちゃんを見下ろす形になった。逆光。暗闘の中でいーねーちゃんの表情が見えない。
「泣いても、何も変わりませんわ」
致命的な一言だった。
泣いても変わらない。すーねーちゃんがどれだけ泣いても、いーねーちゃんは元に戻らない。かっこも戻らない。涙は何も動かさない。
すーねーちゃんが、膝を抱えた。壁に背中を押し付けたまま、小さく丸まった。
「……わたし……どうすればよかったの……」
嗚咽。
「どうすれば……守れたの……」
5%のあたしが、限界を超えて叫んでいた。やめろ。もうやめてくれ。すーねーちゃんを壊すな。お願いだから。
でも、95%のあたしは、一歩前に出た。
いーねーちゃんの横に並んだ。
すーねーちゃんを見下ろした。壁際で泣いている、小さなすーねーちゃんを。
「すーねーちゃん」
声をかけた。自分の声が、ひどく穏やかだった。
すーねーちゃんが、涙の中からあたしを見上げた。すがるような目。最後の希望を探す目。
この瞬間、すーねーちゃんの中にはまだ、わずかな期待があったはずだ。かっこだけは。かっこだけは、わたしを引き戻してくれるかもしれない。かっこが「すーねーちゃん、ごめん、目が覚めた」と言ってくれるかもしれない。
でも……。
あたしは、口を開いた。
「何もしなくてよかったんだよ」
すーねーちゃんの目が、凍った。
「最初から、全部。……受け入れればよかっただけ」
5%が、消えた。
あたしの中の最後の砦が、音もなく崩れ落ちた。自分で壊した。自分の言葉で。すーねーちゃんに向けたその言葉が、同時にあたし自身の最後の「正気」を踏み潰した。
すーねーちゃんの表情が、壊れた。
泣くでもない。怒るでもない。ただ、すべてを失った人の顔。何もかもが零れ落ちて、空っぽになった顔。
「……もう………ダメ………」
すーねーちゃんの体がまた崩れた。ベッドの上で、横に倒れた。力が抜けたみたいに。
「わたしには……どうしようも……できない………」
涙が、シーツに染みていく。
「ごめんね……いーちゃん……かっこ……」
声が震える。割れる。消えかかる。
「助けて………あげられ……な………く…………て……」
最後の言葉が、途切れ途切れに溶けていった。
すーねーちゃんの目が、閉じた。
糸が、切れた。
あたしはそれを見ていた。すーねーちゃんの中で、何かが決定的に折れる瞬間を。
いーねーちゃんに削られて削られて、最後にあたしが折った。
あたしが。
あたしの言葉が。
「何もしなくてよかった」。
すーねーちゃんがずっと必死に守ってきたことの全てを、一言で否定した。あたしの手で。あたしの声で。あたしの——
胸の奥で、何かが軋んだ。
もういない5%の残響が、最後に一度だけ震えた。
ごめんね、すーねーちゃん。
その声はもう誰にも届かず、暗闇の中に消えた。


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