Chapter 4:絶望の現実
Act.3「崩壊の予兆」
あれから何日経ったのか、分からない。
時間の感覚が曖昧になっている。朝と夜は来る。太陽が昇って沈む。でもそれが何曜日なのか、何日なのか、カレンダーを見ても実感がない。ただ、昨日と今日があるだけ。
2人は変わらない。変わらずに、「変わった」ままでいる。
いーちゃんは完璧な微笑みを浮かべ続けている。時おり露骨に甘い言葉を吐く。お嬢様口調の中にねっとりとした何かが混ざっていて──いや、お嬢様口調じゃないことが増えたような──それを聞くたびに背筋が冷たくなる。
かっこは穏やかだ。以前の鋭さが完全に消えて、代わりに妙な透明感がある。何を言っても怒らない。何を言っても笑っている。優しい。優しすぎて、空気みたいに掴めない。
わたしは、一人だ。
「お姉様」
夕方。台所で1人、夕飯を作っていたとき。最近は3人で作ることがなくなった。かっこが作らなくなったから、わたしが作っている。
振り返ると、いーちゃんがドアの枠にもたれて立っていた。
「何か手伝いましょうか」
「……いい。大丈夫」
「そう。でも、お姉様1人じゃ大変でしょう?」
「大変じゃない」
大変だ。本当は。でも、いーちゃんを台所に入れたくなかった。2人きりの閉じた空間でいーちゃんと対峙するのは、今のわたしには荷が重すぎる。
「お姉様」
「なに」
「最近、痩せました?」
手が止まった。
「……そう?」
「ええ。顔色も良くありませんわ。ちゃんと食べてます?」
「食べてるよ」
「嘘。お姉様、昨日の夕飯、ほとんど残してましたわ」
見ていたのか。
「……食欲がないだけ」
「心配ですわ」
いーちゃんが一歩、台所に入ってきた。
「お姉様は、あたくしたちのことばかり心配して、自分のことは後回しにするでしょう?」
「……そんなことない」
「ありますわ。昔からそう。お姉様はいつも、自分を最後にする」
それは。
そうかもしれない。でも、長女だから。上の姉だから。2人を守るのがわたしの役目だから。
「あたくしね、お姉様に幸せになってほしいんですのよ」
いーちゃんの声が、柔らかかった。
「あたくしたちのために苦しまないでほしい」
優しい言葉。正しい言葉。何も間違っていない言葉。
なのに、聞くと胸が痛む。なぜなら、その「苦しまないで」は、「あきらめて」と同じだから。「わたしたちを元に戻そうとするのをやめて」と同じだから。
「……やめて」
「お姉様?」
「やめて。そういう言い方」
「どういう言い方?」
「……優しく言えば何でも通ると思わないで」
声が震えた。もっと強く言いたかったのに。叫びたかったのに。
いーちゃんが、悲しそうな顔をした。本当に悲しそうに見えた。
「……傷つけてしまいましたわね。ごめんなさい」
「謝らないで。謝られると……余計に……」
言葉が詰まった。
なんで。なんでこの人はこんなに上手いの。怒っても効かない。無視しても効かない。そして優しくされても、対抗できない。どの角度から来られても、わたしには手がない。
包丁を置いた。手が震えて、危ないから。
いーちゃんが、静かにわたしの背中に手を置いた。
「無理しないで、お姉様」
振り払えなかった。
夜。リビング。
3人でテーブルを囲んでいる。わたしが作った夕飯を、3人で食べている。形だけは、前と同じ。
でも、会話がない。わたしが何か言っても、2人の返事は短い。穏やかだけど短い。わたしを含まない世界の住人が、儀礼的に応答しているような。
食器を片付けて、ソファに座った。テレビはつけなかった。
「すーねーちゃん」
かっこが、隣に座ってきた。反対側にいーちゃんも座った。挟まれた。
「なに……」
体が強張る。2人に挟まれるのは、もう怖い。左右から声が来る。左右から視線が来る。どちらに体を向けても、もう1人の存在が背中にある。
「ねえ、すーねーちゃん。なんで1人で全部やろうとするの」
かっこの声。穏やかで、温かい。
「……1人でなんかやってない」
「やってるよ。ごはん作るのも、洗濯も、あたしたちの心配も。全部1人で」
「それは……あなたたちが……」
言いかけてやめた。「あなたたちがやらないから」。そう言いたかった。でも言ったら、2人を責めることになる。責めたら、また壁ができる。壁を作ったら、余計に遠くなる。
「わたしが……もっとちゃんとしていれば……」
気がつくと、そう呟いていた。
自分を責める方が楽だった。2人のせいにするより、自分のせいにする方が。
いーちゃんが、小さく笑った。
「うふふ……そうですわね……」
ぞくっとした。今の笑い方。
かっこが、わたしの肩に手を置いた。
「すーねーちゃん、ずっと頑張ってたもんね」
また、この言葉。
「やめて……そんな言い方……」
「だって事実じゃん」
事実。
わたしはずっと頑張っていた。事実だ。2人を守ろうと、2人を止めようと、1人で全部背負おうと。そして全部失敗した。何も守れなかった。何も止められなかった。
事実だ。
事実を突きつけられると、言い返せない。
「……お願い……もう……やめて……」
涙が出てきた。また。何度目だろう。涙が安くなっている。でも止められない。
「わたし……どうすればよかったの……?」
声が裏返った。
2人は答えなかった。
テレビの消えた画面に、3人の姿がぼんやりと映っていた。泣いているあたしと、穏やかに座っている2人。まるで別世界の住人みたいだった。
「……どうすれば……いーちゃんを……かっこを……守れたの……」
誰も答えない。
当たり前だ。守れなかった人間に、「こうすればよかったんだよ」と教えてくれる人は、どこにもいない。
「分からなくていいよ」
かっこが言った。
「……え……?」
「分からないままでも、大丈夫だから」
やめて。
「こっちに来れば、分からなくても苦しくないから」
やめて。
「すーねーちゃんはずっと、"正しい答え"を探してたでしょ? でも、正しい答えなんてなかったんだよ。最初から」
あたしの思考が、揺れた。
正しい答えがなかった? 最初から? じゃあ、わたしが必死に探していたものは何だったの。わたしが守ろうとしていた「正しさ」は、存在しなかったの。
「……違う……正しい答えは……ある……はず……」
声が弱い。自分でも分かるくらい、弱い。
いーちゃんが、反対側からわたしの手を取った。
「お姉様。もう、お楽にしてよろしいんですのよ」
楽に。
楽になりたい。
――わたしは今、「楽になりたい」と思った。
その思考が自分のものだと気づいた瞬間、恐怖が走った。今まで「2人の言葉に影響されない」と思っていた。わたしだけは大丈夫だと。最後の砦だと。
なのに。
今、わたしの中に、初めて「こっち側」の声が混じった。
「……あれ……?」
小さく呟いた。自分の中の異変に気づいて。
かっこが、わたしを見ている。
「すーねーちゃん? どうしたの?」
「……いや……なんでもない……」
「顔色悪いよ。大丈夫?」
「大丈夫……」
大丈夫じゃない。
何かが、ほどけた。わたしの中で。きつく縛っていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ。かっこの手の温もりが、いーちゃんの手の温もりが、左右からわたしを包んでいる。温かい。怖い。温かいから怖い。
「今日はもう寝なよ、すーねーちゃん。疲れてるでしょ」
「ええ。ゆっくり休んでくださいまし」
2人に促されて、立ち上がった。足がふらついた。
廊下を歩く。自分の部屋に向かう。
途中で、壁に手をついた。視界がぼやける。涙じゃない。もっと物理的な、ノイズみたいなぼやけ方。瞬きをすると直る。でも、一瞬だけ、廊下の壁が歪んで見えた。
部屋に入って、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見る。
――かっこは、わたしを心配してくれている。いーちゃんも、わたしのことを気にかけてくれている。2人とも優しい。変わったけど、優しい。
だったら、わたしだけが「おかしい」と叫び続けることに、意味はあるのか。
2人が幸せそうなら。2人が笑っているなら。それでいいんじゃないか。わたしが1人で苦しんでいることに、何の意味が。
……やめて。
その考えは、わたしのものじゃない。
わたしのものじゃないはずだ。
……はずだ。
暗い部屋の中で、時計の秒針が音を立てている。カチ、カチ、カチ。
規則正しい音。安心する音。変わらない音。
でも。
今夜もまた、1度だけ、秒針が遅れた気がした。
第4章 -了-


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