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共感は救いか、侵食か|Chapter 4:絶望の現実|Act.2「優しさで刺す」

Chapter 4:絶望の現実

Act.2「優しさで刺す」

すーねーちゃんが泣いたのは知っていた。

壁越しに聞こえた。声を殺していたけど、殺しきれていなかった。しゃくりあげるような、呼吸が途切れるような音が、廊下に漏れていた。

あの後すぐ、あたしたちはいーねーちゃんの部屋に移動した。いーねーちゃんと2人で、すーねーちゃんの泣き声を聞いていた。

「……泣いてるね」

あたしが言うと、いーねーちゃんが小さく頷いた。

「ええ」
「……かわいそうだな」

その言葉は本心だった。あたしの中の5%が、まだそう感じていた。すーねーちゃんがかわいそう。すーねーちゃんを泣かせているのはあたしたちで、あたしたちが変わったせいで、すーねーちゃんは1人になっている。

でも、残りの95%のあたしは、別のことを思っていた。

――すーねーちゃんが、こっちに来てくれたらいいのに。

そうすれば泣かなくて済む。そうすれば、3人でまた一緒にいられる。あたしたちは別に、すーねーちゃんを排除したいわけじゃない。ただ「こっち側」に来てほしいだけ。

来てくれたら、全部解決するのに。

「……いーねーちゃん」
「なに?」
「明日、あたしがすーねーちゃんと話してみる」
「あら。何を話すの?」
「分かんない。でも……このままじゃ、すーねーちゃん壊れちゃうから」

いーねーちゃんが、少し驚いた顔をした。それから、穏やかに笑った。

「……かっこって、やっぱり優しいですわね」

優しい。

そうだろうか。これは優しさだろうか。

5%の部分が、小さく叫んでいた。違う。これは優しさじゃない。これは――

でも、声は遠かった。


翌朝。

あたしはリビングに出て、久しぶりに3人分のお茶を淹れた。

ほうじ茶。紅茶。麦茶。

やかんが沸く音を聞きながら、自分の手を見た。同じ手。同じ指。何も変わっていないはずの手。でもこの手が淹れるお茶の意味は、前とは違う。

前は「いつもの朝の儀式」だった。今は、そう。

餌だ。

すーねーちゃんをリビングに引き出すための。

……やめよう。そんな言い方。5%のあたしが嫌がっている。

すーねーちゃんがリビングに出てきた。目が腫れている。あたしが3つのカップを持っているのを見て、一瞬、息を呑んだ。

「……淹れてくれたの」
「うん。久しぶりにね」

すーねーちゃんの目に、わずかな光が戻った。希望。あたしが「戻った」と思ったのかもしれない。お茶を淹れるという、前のかっこの習慣が復活したことで。

その光を見て、5%のあたしが叫んだ。

違う。違うよすーねーちゃん。これは罠だ。あたしを信じちゃダメだ。

でも声は届かない。5%の声は、もう、あたし自身にすら届かない。


――お茶の匂いで目が覚めた。

ほうじ茶の、温かい匂い。懐かしい匂い。わたしの好きな匂い。

リビングに出ると、テーブルの上に3つのカップがあった。かっこが台所に立っている。

心臓が跳ねた。

「……淹れてくれたの」
「うん。久しぶりにね」

かっこの声。いつもの声……じゃない。でも、いつもよりは近い。少しだけ温度がある。

期待しちゃダメだ。そう思いながら、でも期待してしまう。お茶を淹れてくれた。3人分。あの子が、前みたいに。

「……ありがとう」

ほうじ茶を受け取った。温かかった。両手で包むと、指先から体温が戻っていくような気がした。

いーちゃんも出てきて、紅茶を取った。3人でテーブルを囲んだ。

「ありがとう、かっこ。おいしいですわ」

いーちゃんが笑う。かっこも笑う。わたしも笑う。

一瞬だけ、前に戻ったような錯覚がした。3人で朝のお茶を飲んで、笑い合って。こんな朝が、ずっと前にあった気がする。

でも、かっこの目を見て、分かった。

あの目は、前のかっこの目じゃない。温かいけど、どこか――透明すぎる。感情があるのに、その奥が見通せない。

期待しちゃダメだったのに。


昼。

かっこがソファの隣に座ってきた。自然に。当然のように。

「すーねーちゃん、最近ちゃんと寝てる?」

心配してくれている。声が優しい。でも。

「……あんまり」
「だよね。目、腫れてるもん」
「……そう?」
「うん。泣いてたでしょ、昨日」

心臓が止まりそうになった。聞こえていたんだ。聞こえていて、何もしなかったんだ。

「……聞こえてた?」
「うん」
「……ごめんね。心配かけて」
「ううん。すーねーちゃんが泣くのは当たり前だよ。だって、辛いんでしょ?」

辛い。

辛いよ。

2人がどんどん遠くなっていく。手を伸ばしても届かない。声を上げても響かない。毎日、少しずつ、わたしの知っている妹たちが消えていく。

「……うん。辛い」

素直に言ってしまった。言ったら楽になるかと思ったけど、もっと辛くなった。

かっこが、わたしの手に自分の手を重ねた。温かかった。

「すーねーちゃん、ずっと頑張ってたもんね」

やめて。

「あたしたちのために、ずっと」

やめて。

「怒ったり、泣いたり、諭したり。全部すーねーちゃんが1人でやってた」

やめて。

「でもね、すーねーちゃん」

かっこが、少しだけ微笑んだ。柔らかい笑顔。前のかっこなら絶対にしなかった、穏やかすぎる笑顔。

「もう、頑張らなくていいよ」

――っ。

息が詰まった。

その言葉が、刃物みたいに胸に刺さった。「頑張らなくていい」。それは優しい言葉だ。本来なら。疲れた人を癒す言葉だ。

でも今のかっこが言う「頑張らなくていい」は、「抵抗しなくていい」と同義だった。「あたしたちを止めようとしなくていい」。「あきらめていい」。

優しさで刺す。

「……やめて、かっこ」

手を引いた。震えていた。

「そんな言い方、しないで」

「え、何が?」

かっこがきょとんとした。本当に分かっていないのか、分かっていて分からないふりをしているのか。いーちゃんと同じだ。同じ反応。同じ手口。

「あたし、ただ心配してるだけだよ?」

その声が、優しければ優しいほど、わたしの中の何かが軋む。

「……お願い。前みたいに話して。前みたいに『すーねーちゃんどんくさいなあ』って笑って」
「……すーねーちゃん」
「お願い。ツッコんでよ。わたしに」

かっこが、少しだけ黙った。

それから。

「……すーねーちゃんは、どんくさくないよ」

優しい声で。

「ただ、疲れてるだけ。だから――」

「違うっ……!」

叫んだ。自分でも驚くほど大きな声が出た。

「わたしが欲しいのはそんな言葉じゃない……! わたしをバカにして……! わたしの寝癖を笑って……! わたしのドジにツッコんで……! それがあなたでしょ……!?」

かっこの目が、一瞬だけ揺れた。

ほんの一瞬。

でもすぐに戻った。透明な、静かな目に。

「……すーねーちゃん」

穏やかに。

「"今"のほうが、ちゃんと話せてるよ?」


わたしは自分の部屋に逃げ込んだ。

背中をドアに押し当てて、座り込んで、泣いた。今度は声を殺さなかった。殺す気力がなかった。

何で。何でこうなったの。

3人で笑っていたあの日は、どこに行ったの。

いーちゃんが壊れて。かっこが変わって。わたしだけが取り残されて。

わたしだけが、「前」にいる。

2人は「先に行った」と言う。あたしが「古い側」だと言う。じゃあ何、わたしが間違ってるの? 前の日常を守りたいと思うことが、間違いなの?

間違ってない。間違ってないはずだ。

……はずなのに。

かっこの言葉が、頭の中でぐるぐる回っている。

「もう頑張らなくていいよ」
「"今"のほうが、ちゃんと話せてるよ?」

わたしが頑張れば頑張るほど、2人は遠くなる。わたしの正しさは、2人に届かない。

じゃあ。

わたしの「正しさ」は、本当に正しいのか。

「……違う……わたしは……間違ってない……」

声に出した。自分に言い聞かせるように。

部屋の中に、自分の声だけが響いた。

誰も否定してくれない。誰も肯定してくれない。ただ、わたし1人の声が、わたし1人に返ってくる。

壁の向こうで、2人の笑い声が聞こえた。

楽しそうだった。

……楽しそうなのが、一番つらい。

共感は救いか、侵食か|Chapter 4:絶望の現実|Act.3「崩壊の予兆」
自分の正しさを疑い始める長女。「楽になりたい」と思った瞬間、初めて自分の中に「こっち側」の声が混じる。最後の砦に、ひびが入り始めた。

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