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共感は救いか、侵食か|Chapter 4:絶望の現実|Act.1「最後のひとり」

Chapter 4:絶望の現実

Act.1「最後のひとり」

わたしの朝は、変わった。

目が覚めても、すぐにリビングへは行かない。ベッドの中で天井を見つめて、今日の2人がどうなっているか、想像する。昨日より良くなっているか。それとも、もっと遠くへ行ってしまっているか。

期待はしない。期待すると、裏切られたときに立てなくなるから。

でも、どこかで祈っている。

今日こそ、かっこが「おはよう、すーねーちゃん」といつもの声で言ってくれることを。いーちゃんが「おはようございます、お姉様」と気取った顔で言ってくれることを。わたしがドジを踏んで、2人に笑われることを。

祈って、起き上がる。

リビングに出る。


2人はソファに並んで座っていた。

近い。肩が触れる距離。以前ならかっこが嫌がっていた距離。でも今はかっこの方から寄っているように見える。

「……おはよう」

声を出す。努めて明るく。震えないように。

2人が同時にこちらを見た。

「おはよう、すーねーちゃん」
「おはようございます、お姉様」

声が揃っている。前は絶対に揃わなかった。かっこは雑で、いーちゃんは丁寧で、テンポもリズムもバラバラだった。それが心地よかった。3人がバラバラだからこそ、一緒にいる意味があった。

今は、揃っている。

揃っているのに、そこにわたしはいない。

「……2人とも、今日は何するの?」
「特に何も。ねえ、いーねーちゃん?」

かっこがいーちゃんの方を見る。いーちゃんが微笑んで頷く。

「ええ。のんびりしますわ」

2人の間にある空気が、閉じている。わたしを含まない輪。目に見えないけれど、確かにそこにある境界線。わたしは外側に立っている。

台所に向かった。自分でほうじ茶を淹れる。最近はいつも自分で淹れている。前はかっこが3人分淹れてくれていた。いつの頃からそれがなくなって、わたしは何も言えなかった。

「お茶淹れてよ」と言えばよかったのかもしれない。でもそう言ったら、かっこが「あ、ごめん」と言って淹れてくれるかもしれない。そのとき、かっこの目がいつものかっこじゃなかったら。いつもの声じゃなかったら。

確認するのが、怖い。


昼過ぎ。

わたしはリビングのテーブルで書類を整理していた。仕事の書類。社会人1年目の、まだ覚えることが山ほどある、あの書類。

……仕事。

あたしには仕事がある。社会人だから。会社に行って、上司の指示を聞いて、報告書を書いて。

でも。

最後に会社に行ったのは、いつだっけ。

書類はある。手元にある。でも「出勤した」「通勤した」という記憶が曖昧だ。電車に乗った? 駅まで歩いた? オフィスの自分のデスクは、どんな形だった?

――思い出せない。

不思議だ。社会人としての自覚はあるのに、社会人としての具体的な記憶がない。まるで「社会人1年目」という肩書だけが貼りつけてあって、中身が空っぽみたいだ。

考えすぎだ。きっと最近のストレスで、記憶が曖昧になっているだけ。いーちゃんのこと、かっこのこと、心配事が多すぎて、日常の細かいことが飛んでいるだけ。

そう自分に言い聞かせて、書類に目を戻した。

文字が並んでいる。読める。理解できる。でも、意味が頭に入ってこない。

ソファの方から、2人の笑い声が聞こえた。

何が面白いのか、あたしには分からなかった。


「……2人とも、落ち着いて。ちょっと話を……」

夕食前。意を決して、2人の前に座った。

何度目かの「話し合い」。でも、今回は違う。前はまだ「いーちゃんを止める」が目的だった。今は、2人ともだ。かっこも、止めなきゃいけない。

いーちゃんが小首を傾げた。

「落ち着いてますわよ?」

にっこり。その「にっこり」の後ろに、何があるのか。もう考えたくない。

かっこが、穏やかな声で言った。

「うん、むしろ今が一番落ち着いてるかも」

わたしの心臓が、きゅっと縮んだ。

かっこの声だ。かっこの顔だ。でも、あの子が「今が一番落ち着いてる」と言うとき、それは「前は落ち着いてなかった」ということで、つまり「前の自分は不安定だった」と思っているということで。

前のかっこは不安定じゃなかった。明るくて、鋭くて、誰よりもバランスが取れていた。3人の中で一番しっかりしていた。

なのに、今のかっこはそれを「落ち着いてなかった」と言う。

価値観が、反転している。

「……お願い。話を聞いて」
「聞いてるよ、すーねーちゃん」
「聞いてますわ、お姉様」
「2人とも……最近、おかしいよ。前と違う。自分で分からない?」

いーちゃんとかっこが、顔を見合わせた。

示し合わせたように、同時に微笑んだ。

その瞬間、わたしの中で何かが崩れた。2人が「同じ側」にいる。あたしだけが「違う側」にいる。3人だったはずの家族が、2対1になっている。

「おかしいかな。ねえ、いーねーちゃん」
「どうかしら。あたくしは普通だと思いますけれど」
「だよね。あたしもそう思う」

会話が成立していない。

わたしの言葉は2人に届いているのに、意味が伝わっていない。同じ日本語を喋っているのに、同じ言葉を使っているのに、噛み合わない。

「……お願い……2人とも……前みたいに……」

声が震えた。情けない。こんなところで泣きそうになるなんて。

かっこが、少しだけ表情を変えた。

「前って……どこ?」

静かな問い。

「……え……?」

「前って、いつのこと? どの時点のあたしたちのこと?」

答えられなかった。

前。前って、いつだ。いーちゃんが変わる前? かっこが変わる前? 3人で笑っていたあの朝? でも、あの朝もその前も、本当に「正常」だったのか。わたしが「正常」だと思っていただけで、最初から何かがおかしかったんじゃないか。

分からない。分からなくなっている。

いーちゃんが静かに言った。

「お姉様は……"古い側"なんですのよ」

古い側。

「あたくしたちはね、先に行っただけですの。お姉様も、来ればいいのに」

来ればいい。

その言葉が、招待なのか脅迫なのか、区別がつかなかった。

わたしは立ち上がった。何か言おうとした。言葉が出なかった。口を開いて、閉じて、また開いて。

何も出てこない。

2人が、わたしを見上げている。穏やかに。優しく。

「……ごめん、ちょっと……部屋、戻るね……」

逃げた。

リビングを出て、廊下を歩いて、自分の部屋に入って、ドアを閉めた。

背中をドアに預けて、ずるずると座り込んだ。

涙が出てきた。止まらなかった。

声を殺して泣いた。2人に聞こえないように。泣いているところを見せたら、2人はきっと優しい言葉をかけてくれる。「大丈夫ですわよ、お姉様」「泣かないで、すーねーちゃん」。

その優しさが、今は一番怖い。

だから、1人で泣いた。

部屋の隅で。膝を抱えて。誰にも聞こえないように。

共感は救いか、侵食か|Chapter 4:絶望の現実|Act.2「優しさで刺す」
末っ子が淹れた一杯のお茶。長女には希望、末っ子には罠。「もう頑張らなくていいよ」——優しい言葉が刃になる。追い詰める側の主観で描かれる地獄。

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