Chapter 3:かっこ侵食
Act.4「あと、5%」
自覚はあった。
最初からずっと、自覚はあった。自分の中で何かが変わりつつあること。いーねーちゃんの言葉が、以前より深く届くようになっていること。以前は跳ね返せたものが、染み込んでいること。
だけど、自覚があることと、止められることは、イコールじゃない。
水が少しずつ上がってくる部屋にいるみたいだった。最初は足首。次にふくらはぎ。膝。腰。首。水位が見えているのに、出口がない。分かっているのに、足が動かない。
いや。
正確に言えば、動かないんじゃなく、動かしたくなくなっている。
それが一番怖かった。
リビング。夜。もうすーねーちゃんの姿はない。最近、すーねーちゃんはあたしたちのいる空間に長くいられなくなっている。あたしが変わりつつあることに気づいていて、でもそれを止める方法が分からなくて。
あたしたちの目を見られなくなっている。
「……ねえ、いーねーちゃん。あたし……変わったよね……」
唐突に、口から出た言葉。自分の変化を言ったつもりだった。
いーねーちゃんは少し間を置いて、静かに答えた。
「うん……変わったよ」
否定しなかった。
「でも……」
でも――その先をいーねーちゃんが続ける前に、あたしが聞いた。
「……でも、なに」
「ちょっと……気持ちいいでしょ……?」
沈黙。
長い、長い沈黙。
リビングの時計が秒を刻む音が、やけにはっきり聞こえた。
「……っ、それは……違……」
否定しようとした。口が動いた。言葉を吐き出そうとした。
でも、最後まで言えなかった。
だって。
気持ちよかったから。
いーねーちゃんの言葉を聞いて、理解して、共鳴して。自分の中の壁がひとつずつ溶けていくのを感じるとき。息苦しさが薄れて、何かから解放されるような、ふわりとした感覚。
それを「気持ちいい」と言ってしまったら終わりだと、分かっていた。分かっていたのに、否定できなかった。
いーねーちゃんが、何も言わずに微笑んだ。
その微笑みが、全部を肯定していた。あたしの沈黙を。あたしの揺れを。あたしが否定しきれなかったことを。
否定しない。
いーねーちゃんは、否定しない。怒らない。責めない。ただ受け入れる。「いいんですわよ」と。「そのままでいいんですわよ」と。
それが、一番きつい。
翌日。
すーねーちゃんが、あたしの前に立った。
「かっこ」
真っ直ぐな目。
あたしは、その目を見ることができなかった。
「……なに、すーねーちゃん」
「あなた、やっぱり変わったよ」
「……変わってないよ」
「変わった。声も、目も、言葉も。……全部」
すーねーちゃんの声が、震えていた。
「お願い。戻って」
「戻るって……どこに」
「前に。前のかっこに。ツッコミが早くて、麦茶が好きで、わたしのドジに笑ってくれた、あのかっこに」
胸が痛んだ。
すーねーちゃんの言う「前のあたし」が、確かにいたことは覚えている。覚えているけど、それがだんだん古い写真みたいに遠くなっていく。色あせて、輪郭がぼやけて、他人の思い出みたいに感じられる。
「……すーねーちゃん。あたし、別に消えたわけじゃないよ」
「でも前と違う」
「違わないって」
「違うよ……!」
すーねーちゃんの目から、涙がこぼれた。
「あなたは前、翠香のことを怖いって言ってた。おかしいって言ってた。なのに今は、毎晩一緒にいて、笑って話して……あの子の言葉に頷いて……」
「……それは、理解しようとしてるだけで」
「理解じゃない!」
叫ぶように。
「それは共感だよ……! あの子に、共感してるんだよ……!」
理解と共感は違う。
すーねーちゃんは最初からそう言っていた。あたしは「分かってる」と答えた。分かってると。
分かってなかった。
いつの間にか、理解のつもりで共感していた。聞いているつもりで受け入れていた。境界線のこちら側にいるつもりで、とっくに足を踏み入れていた。
「……ごめん……すーねーちゃん……」
それしか言えなかった。
すーねーちゃんが泣いている。あたしのために泣いている。なのに、あたしはその涙を見ても、前ほど心が動かなかった。
動かないことが、怖かった。
怖いと思えることが、まだ残っている最後の正気だった。
夜。
いーねーちゃんの部屋。
いつの間にか、あたしはいーねーちゃんの部屋に入り浸るようになっていた。リビングではなく、いーねーちゃんの部屋。閉じた空間。2人きりの空間。
ベッドの端に座って、向かい合う。
「……ねえ、いーねーちゃん」
「なにかしら?」
「すーねーちゃんが泣いてた」
「……そう」
「あたしのせいだって」
「そう思う?」
考えた。考えて、答えた。
「……思う。でも、どうすればいいか分からない」
「戻ればいいって言うんでしょうね、お姉様は」
「うん」
「かっこは、戻りたい?」
長い間。
「……分かんない」
これが正直な答えだった。
前の自分に戻りたい気持ちはある。でもそれと同じくらい、今の自分のほうが楽だと感じている。壁がない。境界線がない。怖いものがない。
前のあたしは、いろんなものを抱えていた。ツッコミ役としての役割。3人のバランスを取る責任。「普通でいなきゃ」というプレッシャー。全部を背負って、笑って、回して。
今は、それがない。軽い。ただ軽い。
「ううん……もう分かっているじゃない……」
いーねーちゃんがじっとあたしを見た。
「分かってない。あたしは……まだ……」
「"まだ"って……言ったわね?」
息が止まった。
まだ。あたしは「まだ」と言った。「まだ」は「まだ保ってる」の「まだ」で、「まだ大丈夫」の「まだ」で。
でもそれは同時に、「もうすぐ保てなくなる」ことを前提にした言葉だ。
「まだ」は、終わりを認めた上での猶予でしかない。
「……っ……」
「大丈夫……ちゃんと一緒にいるから……」
いーねーちゃんの声が、優しかった。本当に優しかった。
「……それが……怖いんだってば……」
声が震えた。自分の声なのに、他人の声みたいだった。
「怖い?」
「怖い……いーねーちゃんが優しいのが、怖い……」
「なぜ?」
「だって……優しくされると……抵抗できなくなる……」
言ってしまった。
認めてしまった。抵抗できなくなりつつあることを。いーねーちゃんの優しさが、あたしの中の壁を溶かしていることを。
いーねーちゃんが、そっとあたしの手を取った。今度は振り払わなかった。振り払えなかった。
「いいんですわよ。抵抗しなくても」
囁くように。
「でも……」
「でも?」
「あたし……あたしじゃなくなるんでしょ……?」
「ならないですわよ。あなたはあなたのまま」
「嘘だよ……いーねーちゃんだって変わったじゃん……」
「変わったんじゃありませんわ。広がったの」
広がった。
その言い方が、ずるかった。「壊れた」でも「崩れた」でもなく、「広がった」。あたかもそれが成長であるかのように。進歩であるかのように。
分かっている。これは詭弁だ。言葉を変えているだけで、中身は同じだ。
分かっているのに。
手を、握り返してしまった。
「……ねえ……もう……あたしじゃないよね……?」
何日後か。もう日付が分からない。
いーねーちゃんの隣で、天井を見ている。自分の部屋じゃなく、いーねーちゃんの部屋の天井。いつからここにいるんだっけ。
「うん……もう"前のあなた"じゃないよ」
いーねーちゃんは否定しなかった。ここでも否定しない。嘘をつかない。ただ、その事実を、優しく、当然のことのように告げる。
「……じゃあ……今のあたしは……誰……?」
声が掠れた。自分という存在の輪郭が、溶けていく感覚。名前を呼ばれても反応できないような。鏡を見ても自分だと認識できないような。
「もうすぐ分かるわよ」
いーねーちゃんが、静かに笑った。
あたしは天井を見つめた。天井に亀裂が走っている。いや、亀裂じゃない。ただの照明の影だ。影が線に見えただけ。
……でも、もし本当に亀裂だったら。天井が割れて、上から何かが覗いていたら。
それを「怖い」と思う気持ちが、もうほとんど残っていなかった。
ある朝。
リビングに出た。すーねーちゃんがいた。テーブルの前に座って、ほうじ茶を両手で包んでいた。湯気がゆらゆらと立ち上っている。
あたしの顔を見て、すーねーちゃんが何かを言いかけた。でもやめた。
あたしが淹れたお茶じゃなかった。すーねーちゃんが自分で淹れたお茶だった。
――そうか。あたし、最近お茶淹れてなかったんだ。
3人分のお茶を淹れること。ほうじ茶と紅茶と麦茶。それが、あたしの朝の習慣だったはずなのに。いつからやめたんだろう。いつから忘れたんだろう。
すーねーちゃんの目が、あたしを見ていた。
泣いてはいなかった。もう泣いていなかった。泣く段階は、過ぎたのかもしれない。
ただ、静かに。深く。何かを確認するように。
あたしの中に「前のかっこ」が、まだいるかどうかを探すように。
「……おはよう、すーねーちゃん」
声は出た。いつも通りの……いや。いつも通りじゃなかった。いつもの「おはよう」には、もっとエネルギーがあった。もっと軽くて、もっと明るくて。今の「おはよう」は、平坦で、温度が低くて。
すーねーちゃんが、小さく微笑んだ。
「おはよう」
その微笑みが、痛かった。
痛い、と思えたこと。
それが、あたしの中に残っている最後の"前のあたし"だった。
ほんのわずか。数字にしたら、たぶん5%くらい。
あたしの中の、たったの5%。
でも、ゼロじゃない。まだ、ある。
すーねーちゃんの微笑みが痛いと思える。すーねーちゃんの優しさが怖いと思える。自分が変わりつつあることを、おかしいと思える。
でも、その5%が消えたら、あたしは完全に「向こう側」に行く。
分かっている。
分かっていて、止められない。
でも、まだ。
まだ、5%だけ。
あたしは、あたしだ。
第3章 -了-


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