Chapter 3:かっこ侵食
Act.3「浸水」
変化は、ゆっくりと進んだ。
あたし自身の変化だ。
最初は些細なことだった。いーねーちゃんの言葉を聞いた後、ツッコミを入れるまでの間が、少しだけ長くなった。以前なら反射的に出てきた「いやいやそれはないでしょ」が、ワンテンポ遅れる。遅れる理由は、いーねーちゃんの言葉を反射で弾く前に、1回だけ味わってしまうから。
味わって、それから「いや、これはおかしい」と判断して、ツッコむ。
工程がひとつ増えた。それだけ。大したことじゃない。
……大したことじゃない、はずだった。
ある夜。リビングで、いーねーちゃんと2人。
最近はこの組み合わせが多い。すーねーちゃんが先に寝て、あたしといーねーちゃんが残る。すーねーちゃんは以前より早く寝るようになった。疲れているのもあるだろうし、あたしたち2人の会話を聞きたくない、というのもあるかもしれない。
「ねえ、かっこ」
「ん」
「怖いのってさ……知らないから、じゃない?」
いーねーちゃんが、膝を抱えてソファに座っている。いつもの完璧な姿勢じゃなくて、少し丸まった、小さな座り方。こういうとき、いーねーちゃんは本音を話す。……いや、「本音」が何なのか、もうあたしには分からないけど。
「知らないから怖い、って話?」
「うん。人って、知らないものを怖がるでしょう。お化けとか、暗闇とか、死とか。全部、"知らない"から怖い」
「……まあ、それは……あるかもだけど」
否定できなかった。事実だから。未知のものを恐れるのは人間の本能だ。
「でしょう? ……じゃあさ、知ったら、変わるよ」
いーねーちゃんがこちらを見た。
「知ったら変わるよ。怖くなくなる」
「……変わるって、いい方向に?」
いーねーちゃんが少し首を傾げた。
「いい方向か悪い方向かは……分からない。でも、少なくとも"怖い"よりはましじゃない?」
ましじゃない?
あたしは答えなかった。答えられなかった。
だって、それは正しいような気がしたから。
怖いままでいるより、知ったほうがいい。怖がり続けるよりも、1歩踏み出したほうがいい。それは「正しい」ことのように聞こえる。
でも、何を「知る」のか。いーねーちゃんが「知った」ものは、何なのか。
「……あたし、まだ知りたくないかも」
「ふふ。それでいいですわ。無理強いはしませんもの」
いーねーちゃんが優しく笑った。
優しかった。本当に。
だから怖いのに。
「かっこ、ちょっといい?」
翌日の昼。すーねーちゃんがあたしの部屋のドアをノックした。
入ってきたすーねーちゃんの顔は、強張っていた。
「昨日の夜、翠香と話してたでしょ」
「うん」
「内容、聞いてもいい?」
「別に大した話じゃないよ。怖いものの話とか」
「……怖いものの話」
すーねーちゃんが、ベッドの端に座った。
「かっこ」
「なに」
「あなた、最近ちょっと変わったよ」
心臓が、どくん、と鳴った。
「……変わった?」
「うん。言葉の選び方とか、反応の速さとか。前はもっと……パンって返してたのに、最近少し溜めるようになった」
「それは……考えてから喋るようになっただけでしょ」
「考えてから喋るって、かっこのスタイルじゃないよ」
痛いところを突かれた。
あたしは確かに瞬発力型だ。考える前に口が動く。ツッコミは反射。それがあたしの持ち味であり、この3人の中での役割だった。
それが変わりつつある。すーねーちゃんの指摘は、正しい。
「……別に、成長でしょ」
「成長じゃないよ。これは」
すーねーちゃんの声が低くなった。
「翠香と同じことが、起きてるんじゃないの」
かちん、ときた。
「は? あたしがいーねーちゃんと同じ? ……違うよ。全然違う」
「でも――」
「違うって。あたしはあたしだよ。いーねーちゃんの話を聞いてるだけで、同意してるわけじゃない」
「聞いてるだけで影響されることもあるの。あの子の言葉は――」
「すーねーちゃん」
あたしは、自分でも驚くほど冷たい声で遮った。
「あたしのこと、信じてくれないの?」
すーねーちゃんが、息を呑んだ。
数秒の沈黙。
「……信じてるよ」
「じゃあ、放っておいて」
「……」
すーねーちゃんが立ち上がった。目が潤んでいた。
「……分かった。ごめんね」
ドアが閉まった。
あたしは自分の言葉の冷たさに、少しだけ驚いていた。すーねーちゃんに「放っておいて」なんて言ったのは初めてだ。あの人はただ心配してくれていただけなのに。
……でも。
うるさい、と思ってしまった。
すーねーちゃんの心配が、干渉に感じた。善意が、束縛に感じた。
それは、いーねーちゃんがすーねーちゃんに対して感じていたことと同じだ。
あたしは気づいていた。気づいて、でも、気づかなかったことにした。
それからの数日間は、曖昧な記憶しかない。
いーねーちゃんと話した。たくさん話した。何を話したかは覚えているようで覚えていない。言葉の断片だけが残っている。
「ねえ、かっこ。境界線って、誰が引いたの?」
「……誰って、自分でしょ」
「自分で引いた線なら、自分で消せるよね?」
「……まあ、理屈ではそうだけど」
「理屈じゃなくて、実感として」
「あたくしね、前は窮屈だったの。でも今は息ができる。前のあたくしは、きっと息ができないまま笑っていたんですわ」
「かっこは優しいから。優しい人ほど、壁を作るの。傷つかないように」
「でも、壁の中にずっといたら、誰にも届かないですわよ?」
ひとつひとつの言葉が、静かに、でも確実に染み込んでいった。
あたしはツッコんでいた。ツッコんでいたはずだ。でも、ツッコミの語尾が弱くなっていた。「いやいやそれはない」が「いや……それは……」になり、「でしょ」が「……かもだけど」になり。
否定の純度が、薄まっていく。水に絵の具を落としたみたいに。
ある夜。
いーねーちゃんが、あたしの隣に座った。肩が触れる距離。
あたしは、離れなかった。
「……かっこ」
「ん」
「ちょっと、目を閉じてみて」
「……なんで」
「いいから」
言われるままに、目を閉じた。
暗闘。何も見えない。いーねーちゃんの体温だけが、肩越しに伝わってくる。
「……何も見えないでしょう?」
「うん」
「でも、怖くないでしょう?」
「……うん」
「それが、あたくしの見えてる世界」
目を開けた。いーねーちゃんが、すぐ近くにいた。目と目が合う。
「暗いけど、怖くない。何も見えないけど、感じられる。……そういう場所なの」
あたしは何も言えなかった。
ツッコミが出てこなかった。
出てこないのは初めてではないけど、今回は「出てこない」のではなく「出す必要を感じない」に近かった。
いーねーちゃんの言葉が、おかしいと思えなかった。
おかしいはず、なのに。
深夜。自分の部屋に戻って、ベッドに横になる。
天井を見る。
あたしは、何をしているんだろう。
いーねーちゃんを理解しようとした。中に入ろうとした。糸口を見つけようとした。でも、気がつけば、糸口を探しているのか、一緒に糸を手繰り寄せられているのか、分からなくなっている。
すーねーちゃんが言っていた。「理解と共感は違うから」。
違う。違うはずだ。
あたしは理解しているだけで、共感しているわけじゃない。いーねーちゃんの言葉を「聞いている」だけで、「受け入れている」わけじゃない。
……でも、今日、目を閉じたとき。暗闇が怖くなかったとき。いーねーちゃんの言葉を聞いて「おかしい」と思えなかったとき。
あれは理解? それとも共感?
境界線が、分からなくなりつつある。
いーねーちゃんが言っていた。「境界線は自分で引いたものだから、自分で消せる」。
消してない。まだ消してない。
でも、薄くなっている。
確実に。
天井を見る。暗い。何も見えない。
――暗いけど、怖くない。
その言葉が、いーねーちゃんのものなのか自分のものなのか、一瞬分からなかった。
言葉――あれ、そういえば――いーねーちゃんの言葉遣いが、ときどき前と違うような気がする。
――いや、気のせいだ。いろいろ気にしすぎてる。
あたしは寝返りを打って、枕に顔を埋めた。
部屋の鍵は、いつの間にかかけなくなっていた。


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