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共感は救いか、侵食か|Chapter 3:かっこ侵食|Act.2「共鳴」

Chapter 3:かっこ侵食

Act.2「共鳴」

いーねーちゃんとの会話が増えるにつれて、あたしは少しずつ、いーねーちゃんの世界を覗くようになった。

最初はあくまで「聞き役」のつもりだった。いーねーちゃんが何を考えているかを知る。理解する。でも同意はしない。距離は保つ。ツッコミ役としての自分を失わない。

そのつもりだった。


ある日の午後。リビングで2人きり。

いーねーちゃんがいつものソファに座って、テレビを見ていた。バラエティの再放送。芸人がリアクション芸をしている。

「いーねーちゃん、これ前も見なかった?」
「ええ。でも何度見ても思いますの」
「何を?」

いーねーちゃんがテレビを見たまま言った。

「この人たち、大げさに驚いたり怒ったりしてるけど、本当は何も感じてないんでしょうね」
「まあ、テレビだしね。演出でしょ」
「でしょう? ……ねえ、あたくしたちも同じだと思いません?」
「同じって?」
「普段、ちゃんと感じてる? 怒るべきときに怒って、悲しいときに悲しんで、嬉しいときにちゃんと嬉しいって思ってる?」

あたしは少し考えた。

「……まあ、そうじゃないときもあるかも。空気読んで笑ったり、怒りを抑えたりはするよ」
「でしょう? それって、自分を偽ってるってことじゃない?」
「偽ってるっていうか、社会性っていうか……」
「社会性」

いーねーちゃんが、その言葉を噛みしめるみたいに繰り返した。

「社会性のために自分を殺してるんだとしたら、それって健全なのかしら」

「……いや、殺してるは言いすぎでしょ」

ツッコんだ。ちゃんとツッコんだ。

でも、ツッコんだ後に、少しだけ考えてしまった。殺してるは言いすぎ。でも、抑えてるのは事実だ。あたしだって、本当に思ったことをそのまま口に出したことなんて、ほとんどない。いつも一拍おいて、角が立たない言い方を選んで、やんわり伝える。

それは「大人の対応」であって、「自分を殺す」こととは違う。

……違う、よね?

「ふふ。かっこは真面目ですわね」
「真面目じゃなくて普通だよ」
「その"普通"が、あたくしにはちょっと窮屈だったんですの」

窮屈。

いーねーちゃんはそう言って、少しだけ寂しそうに笑った。

あたしは何も言えなかった。ツッコミが出てこなかった。「窮屈」という言葉に、ほんの少しだけ――ほんの少しだけ、共鳴してしまったからだ。


「かっこ」

すーねーちゃんが、台所で声をかけてきた。夕飯の支度をしているとき。いーねーちゃんは自分の部屋にいる。

「最近、翠香と話してる内容……大丈夫?」
「大丈夫だよ。普通の話してるだけ」
「普通の話……」
「うん。テレビのこととか、感情の話とか」
「感情の話?」

すーねーちゃんの眉が、ぴくっと動いた。

「どんな?」
「んー……自分を偽ることってあるよね、みたいな」
「……それ、普通の話?」
「普通でしょ。誰でも考えることじゃん」

すーねーちゃんが黙った。しばらく何かを考えていて、それからゆっくりと言った。

「かっこ。あの子の話は、全部聞く必要ないよ」
「聞いてるんじゃなくて、理解しようとしてるの」
「理解と共感は違うから」
「分かってるよ」
「本当に?」

すーねーちゃんの声が、少しだけ鋭かった。

あたしはちょっと…むっとした。

「分かってるって。あたしはいーねーちゃんじゃないんだから」

すーねーちゃんが、何か言いかけて、やめた。口を開いて、閉じて、代わりに小さく息を吐いた。

「……ごめん。心配しすぎだよね」
「うん。心配しすぎ」

すーねーちゃんが困ったように笑った。

あたしも笑った。

でも、心のどこかで、すーねーちゃんの「理解と共感は違う」という言葉が引っかかっていた。分かってる。分かってるよ。

分かってるのに、なんでこんなに気になるんだろう。


その夜。

あたしといーねーちゃんは、リビングで向かい合っていた。すーねーちゃんはもう寝ている。

「ねえ、かっこ」
「んー」
「……ちょっとだけでいいから……こっち側を見てみない?」
「こっち側って何」

いーねーちゃんが小さく微笑んだ。

「あたくしの見えてるもの。感じてるもの。ちょっとだけでいいから」
「いやいや、見ない見ない」

軽く手を振った。ツッコミモード。

「それ絶対やばいやつでしょ」
「やばいって……誰が決めたの?」
「いや、常識的にね?」
「常識」

また、いーねーちゃんがその言葉を噛んだ。

「常識って、便利な言葉ですわね。考えなくて済むから」

う…。

それは……ちょっと、刺さった。

常識。確かにあたしは「常識的に」「普通に」って言葉をよく使う。それは正しさの担保になるし、考えをまとめるのに便利だし。でも「考えなくて済むから」って言われると、うっ、となる。

「……まあ、常識に頼りすぎるのは良くないかもだけど」
「でしょう?」
「でも、常識を全部捨てるのも違うでしょ」
「全部捨てなくていいですわ。……ただ、1回だけ、疑ってみてもいいんじゃないかしら」

疑う。

「あたくしも最初はそうだったんですの。全部を疑ったわけじゃないんですのよ。ただ、ひとつだけ、『これって本当にそうかな?』って思ったら……」

いーねーちゃんが、ゆっくりと目を伏せた。

「……世界がね、少しだけ広くなったの」

その声が、穏やかだった。柔らかかった。

怖い話をしているはずなのに。

「……」
「……かっこ?」
「ん。いや、別に」

あたしはお茶を飲んだ。麦茶。いつもの味。

なのに、なぜだろう。いつもより少しだけ、薄く感じた。


次の日の朝。

鏡の前で髪を整えていて、ふと自分の目を見た。

いつもの目。普通の目。

――普通って、なんだっけ。

一瞬だけ、そう思った。すぐに振り払ったけど。

リビングに出る。すーねーちゃんが朝ごはんを作ろうとして卵を落としている。いーねーちゃんがソファで雑誌を読んでいる。

あたしはお茶を淹れる。3人分。ほうじ茶、紅茶、麦茶。

いつもの朝。

「おはよう、かっこ」
「おはよ、いーねーちゃん」

普通の挨拶。普通のやり取り。

でも、いーねーちゃんの「おはよう」に返事をしたとき、自分の声がいつもより少しだけ柔らかかったことに、あたしは気づいた。

気づいて、気づかなかったことにした。

すーねーちゃんが拾えなかった卵の殻をつまんでいる。「もう……また割っちゃった……」

あたしは笑った。「すーねーちゃん、どんくさいなあ」

いつものツッコミ。いつもの日常。

でも、笑いながら思った。

いーねーちゃんの言う「世界が広くなった」は、こういう日常を壊すことなんだろうか。それとも、こういう日常の"見え方"が変わるだけなんだろうか。

どっちだろう。

分からない。

分からないことが、前よりも怖くなくなっている。

――それが一番怖いことだと、このときのあたしは、まだ気づいていなかった。

共感は救いか、侵食か|Chapter 3:かっこ侵食|Act.3「浸水」
水位が上がる部屋のように、末っ子の中に次女の言葉が満ちていく。長女に「放っておいて」と告げた冷たい声。鍵をかけなくなった夜。確実に、何かが進む。

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