アイキャッチ[共感は救いか、侵食か]

共感は救いか、侵食か|Chapter 3:かっこ侵食|Act.1「入り口」

Chapter 3:かっこ侵食

Act.1「入り口」

いーねーちゃんが壊れた。

そう認めるのに、少し時間がかかった。

認めたくなかったのかもしれない。あのいーねーちゃんが、「ハレンチ」がどうとか、距離感がおかしいとか、そんなことで壊れるはずがない、と。どこかで元に戻ると信じていた。朝になればいつものいーねーちゃんが「おはようございます」と出てきて、あたしが「おはよう」と返して、すーねーちゃんが寝癖のまま現れて、3人で笑う。そういう朝が、また来ると。

でも、来なかった。

来たのは、完璧な笑顔を貼り付けた別の誰かだった。

すーねーちゃんはいーねーちゃんを「止める」ことを諦めていた。諦めた、というより、手段が尽きたのだ。怒った。無視した。諭した。泣いた。全部だめだった。全部、あの完璧な笑顔に吸い込まれて消えた。

すーねーちゃんは最近、目が疲れている。ちゃんと眠れていないんだと思う。でも「大丈夫」と言う。いつも「大丈夫」と言う。

あたしは考えていた。

すーねーちゃんのやり方は、全部「外から」だった。外から止める。外から正す。外から引き戻す。でも、いーねーちゃんの変化は「中から」起きている。外からいくら叩いても、中が変わらなければ意味がない。

じゃあ、中に入ればいいんじゃないか。

いーねーちゃんの中に。いーねーちゃんが今、何を考えていて、何を感じていて、なぜ変わったのか。それを理解すれば、もしかしたら――

もしかしたら、引き戻す糸口が見つかるかもしれない。

……今にして思えば、それが入り口だった。


「ねえ、いーねーちゃん」

午後。すーねーちゃんが自分の部屋にいる時間を見計らって、あたしはリビングでいーねーちゃんの隣に座った。自分から。

いーねーちゃんが少し驚いた顔をした。最近、あたしの方から近づくことがなかったから。

「あら。珍しいですわね」
「うん。ちょっと話したくて」
「まあ。嬉しいこと言ってくれますのね」

にこり。完璧な笑顔。でも今日は、その笑顔を怖がらないと決めた。怖がっていたら、何も分からない。

「いーねーちゃんさ、最近……楽しい?」

前にも同じことを聞いた。あのときいーねーちゃんは「もちろんですわ」と答えた。今回は違う答えが返ってくるだろうか。

「楽しいですわよ。毎日」
「……本当に?」
「本当に」

いーねーちゃんが首を傾げた。「なぜ、そんなに聞くの?」

「だって……前のいーねーちゃんと、今のいーねーちゃんって、結構違うからさ。何かあったのかなって」
「何かって?」
「分かんない。だから聞いてる」

いーねーちゃんは少し黙った。窓の外を見て、また戻って、あたしを見た。

「……かっこは、前のあたくしと今のあたくし、どっちが好き?」

また、この質問だ。「普通のいーねーちゃんと、ハレンチいーねーちゃん」のバリエーション。でも今回は「ハレンチ」は使っていない。もっとシンプルに、もっと直接的に。

「……どっちもいーねーちゃんでしょ」

あたしはそう答えた。意識的に。これが正解かどうかは分からなかったけど、否定から入ったら壁ができる。壁ができたら、中に入れない。

「あら」

いーねーちゃんの目が、ふっと緩んだ。驚いたような、嬉しいような。今までのどの笑顔とも違う、柔らかい表情。

「……そう言ってくれるの、かっこだけですわ」

声が小さかった。お嬢様口調のまま、でもどこか頼りなくて。

「お姉様は『前に戻って』って言いますもの。……今のあたくしを見てくれない」
「……そっか」
「でもかっこは、今のあたくしもいーねーちゃんだって言ってくれた」

いーねーちゃんがあたしの方に少し身を寄せた。前なら反射的に離れていたけど、今日は動かなかった。

「ありがとう」

その「ありがとう」は、本物だった。少なくとも、あたしにはそう聞こえた。


それから、あたしは意識的にいーねーちゃんとの会話を増やした。

難しいことは聞かない。「今日何してたの」「何が食べたい」「その雑誌面白い?」。日常の、他愛もない会話。でも頻度を上げた。いーねーちゃんが何かを言ったら、前みたいに軽くあしらわずに、ちゃんと聞く。ちゃんと返す。

いーねーちゃんは嬉しそうだった。

まるで雪解けのように、少しずつ話してくれるようになった。自分が何を考えているか。何を感じているか。

「あたくしね、最近よく思うんですの。人と人の間にある壁って、邪魔だなって」
「壁?」
「ええ。遠慮とか、建前とか、距離感とか。そういうの全部取っ払って、もっと近くにいられたらいいのにって」
「……まあ、気持ちは分からなくもないけど」
「でしょう?」

分からなくもない。

実際、人間関係の大半は壁でできている。みんな本音を隠して、当たり障りのないことを言って、一定の距離を保って生きている。それが「普通」で「正しい」とされている。

でも、それって本当に正しいのかな。

……いや。

あたしは自分の思考を一度止めた。今のは、いーねーちゃんの言葉に引っ張られすぎた。壁を取っ払うことと、境界線を壊すことは違う。いーねーちゃんがやっているのは後者だ。

区別しなきゃ。

「共感する」ことと「飲み込まれる」ことは違う。

……違う、はずだ。


「かっこ」

ある日の夜。すーねーちゃんが、あたしの部屋にそっと入ってきた。

「最近、翠香とよく話してるよね」

責めるような口調ではなかった。でも、心配が滲んでいた。

「うん。ちょっと、理解しようと思って」
「理解……」
「すーねーちゃんのやり方じゃダメだったでしょ。外から止めても無駄だったじゃん。だったら、中に入って、何が起きてるのか知った方がいいかなって」
「……でも、それって危なくない?」

すーねーちゃんの目が、真剣だった。

「あの子は今、おかしいの。何がおかしいのか分からないけど、おかしい。その中に自分から入っていくのは……」
「大丈夫だよ。あたしはあたしだから。いーねーちゃんの話を聞くことと、いーねーちゃんみたいになることは別でしょ」

すーねーちゃんが黙った。

「……本当に大丈夫?」
「大丈夫。信じてよ」

すーねーちゃんは数秒間あたしを見つめて、それから小さく頷いた。

「……分かった。でも、もしちょっとでも変だと思ったら、すぐに言って。約束して」
「うん。約束する。大丈夫だよ」

すーねーちゃんが部屋を出ていった。

ドアが閉まったあと、あたしは自分の手を見た。
震えていない。心臓も普通のペースで動いている。大丈夫。全然大丈夫。

――のに。

なんで「大丈夫」を3回も言ったんだろう。

1回で足りる言葉を3回言うのは、大丈夫じゃないときだ。あたしはそれを知っているはずなのに。

……考えすぎだ。寝よう。

電気を消す。暗闇。

布団に入って天井を見る。何も見えない。

……いーねーちゃんが言ってたこと。壁を取っ払いたいって。あたしにだって、その気持ちは分かる。人と人の間にある見えない距離。それが煩わしくなることは、誰にでもある。

いーねーちゃんのことを「おかしい」って決めつけるのは、簡単だ。

でも、もし。

もしいーねーちゃんの中で何かが本当に変わっていて、それが苦しいことで、助けを求めているのだとしたら。あの暗闇の中で「たすけ…」と言いかけた声が、まだ残っているのだとしたら。

あたしは、聞きたい。

壁の向こうにいるいーねーちゃんの声を、ちゃんと聞きたい。

そう思って目を閉じたとき、ほんの一瞬だけ、瞼の裏に何かが走った。光みたいな、文字みたいな、意味を持たないノイズ。

眠る直前の幻覚だろう。

あたしはそう判断して、意識を手放した。

共感は救いか、侵食か|Chapter 3:かっこ侵食|Act.2「共鳴」
「自分を偽ってる」次女の言葉に、末っ子はほんの少しだけ共鳴してしまう。ツッコミのキレが鈍る。否定の純度が薄まる。理解と共感の境界が、滲み始める。

コメント

タイトルとURLをコピーしました