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共感は救いか、侵食か|Chapter 2:次女崩壊|Act.3「消えた翠香」

Chapter 2:次女崩壊

Act.3「消えた翠香」

あの夜から、あたしは毎晩、部屋に鍵をかけるようになった。

そのことに、いーねーちゃんは何も言わなかった。すーねーちゃんも何も言わなかった。たぶん3人とも気づいていたし、3人ともそれについて触れないことを選んだ。

鍵をかけなければならない理由を、言葉にしたくなかったのだと思う。

日常は続いていた。朝起きて、お茶を淹れて、ごはんを食べて。表面だけ見ればいつもと同じ。でも中身がまるで違った。会話から体温が消えた。すーねーちゃんはいーねーちゃんに対して必要最低限しか喋らず、いーねーちゃんは笑顔のまま何も気にしていないふりをし、あたしはその間で黙っている。

家族が3人いるのに、3人分の存在感がない。

足りないのか、余っているのか、それすらよく分からなかった。


その日は、朝から雨だった。

雨の音がリビングに響いていた。窓の外は灰色。テレビもつけていなくて、静かだった。

すーねーちゃんはソファで本を読んでいた。あたしはテーブルで課題のノートを開いていた。いーねーちゃんは――自分の部屋にいるはずだった。

ノートの上に文字を書く。書いては消し、消しては書き。集中できない。雨のせいか、それとも別の何かのせいか。

ぱたん、とドアが開く音。

いーねーちゃんが出てきた。

あたしとすーねーちゃんが同時に顔を上げて――止まった。

いーねーちゃんの格好が、おかしかった。

いつもの服装は、お嬢様っぽい口調に合うような、上品でまとまりのあるコーディネート。それがいーねーちゃんの「らしさ」だった。

でも今、いーねーちゃんが着ているのは、キャミソール1枚とショートパンツだけ。季節外れの、明らかに下着に近い格好。

「……いーねーちゃん、その格好」
「あら、だめ?」

にこっと笑った。

「ちょっとハレンチかしら」

止まったはずの言葉が、戻ってきた。

すーねーちゃんが本をぱたんと閉じた。

「翠香。着替えて」
「えー。だってこっちのほうが楽なんですもの」
「楽とかじゃなくて。着替えて」
「お姉様ったら、厳しいですわね。……ふふ、でもそういう厳しいお姉様も、嫌いじゃありませんわよ?」

「嫌いじゃない」の言い方が、家族に向けるそれじゃなかった。

すーねーちゃんの顔が強張る。

「かっこはどう思う? この格好」

いーねーちゃんがあたしを見た。くるっと1回転して見せる。楽しそうに。無邪気に。でもその無邪気さが、壊れたおもちゃのネジが空回りしているみたいで、見ていられなかった。

「……着替えなよ」
「えー、かっこまで」
「風邪ひくから」
「あら、心配してくれてるの? 嬉しい」

嬉しい、という感情の乗せ方が、変だった。言葉は軽いのに、目が重い。重いのに、笑っている。

「ね、あたくし思ったんですの」

いーねーちゃんがソファに腰を下ろした。足を組む。いつもならしない仕草。

「人ってどうして隠すのかしら。体も、気持ちも。隠すから苦しくなるんじゃありません?」
「……何の話」
「あたくしの話ですわ。あたくしね、最近思うの。全部見せたほうが、楽なんじゃないかって」

全部。

「体も?」
「体も。心も。……ぜーんぶ」

にこり。

「だって、隠してるから距離ができるんですもの。裸になれば――」
「やめて」

すーねーちゃんが、立ち上がった。声が震えていた。

「もうやめて、翠香。お願い。何を言ってるか分かってる?」
「分かっていますわ。あたくし、おかしなことは言っていませんわよ?」
「おかしいよ……! 全部おかしい……!」

すーねーちゃんの声が裏返った。

「前の翠香はそんなこと言わなかった……! 服装だって、言葉遣いだって、こんなじゃなかった……! なんで……なんでこうなったの……!」

叫ぶように言って、すーねーちゃんがいーねーちゃんの両肩を掴んだ。強く。必死に。この柔らかい人が、こんなに強く誰かを掴むところを、あたしは初めて見た。

いーねーちゃんが、すーねーちゃんを見上げた。

笑っていた。

でも、目が笑っていなかった。目だけが、深い深い暗闘の底を覗いているみたいに、真っ黒だった。

「お姉様」
「っ……」
「そんなに必死にならなくても、いいんですのよ」

優しい声。まるでこちらが子どもをあやしているような声で。

「だって、あたくしは楽しいんですもの。今のあたくしが、一番あたくしらしいと思いますわ」

すーねーちゃんの手が、震えながら離れた。


すーねーちゃんが泣きながら自分の部屋に戻ったあと、リビングにはあたしといーねーちゃんだけが残った。

雨が降り続いている。

いーねーちゃんはソファに座ったまま、窓の外を見ていた。あたしはテーブルの前に座ったまま、いーねーちゃんを見ていた。

沈黙。

長い沈黙。

「……ねえ、いーねーちゃん」

あたしは、聞いた。

「本当に、楽しい?」

いーねーちゃんが、窓から視線を外した。こちらを見る。

笑顔。

――のはずだった。

でも、一瞬。

ほんの一瞬だけ、いーねーちゃんの顔から表情が消えた。

笑顔でも、悲しみでも、怒りでもない。何もない顔。まるでモニターの電源が一瞬切れたみたいに、ぱっと人間味が抜け落ちた。

そしてすぐに、戻った。

笑顔に。

「もちろんですわ。楽しいに決まっていますわ」

そのあと、いーねーちゃんが少し間を置いて、付け足した。

「……ねえ、かっこ。あたくし、怖い?」

「……怖くないよ」

2度目の嘘。

いーねーちゃんが、ふっと息を吐いた。

「嘘が下手ですわね」

立ち上がって、自分の部屋に向かう。途中で一度だけ振り返って、あたしを見た。

その瞬間。

いーねーちゃんの目に、何かが走った。光のようなもの。澄んだ、冷たい、でもたしかに「元のいーねーちゃん」の色をした何か。

「かっこ」

声が、違った。

お嬢様口調じゃない。気取りも余裕もない。ただ真っ直ぐに、怯えたような、小さな声。

「……たすけ…」

そこで止まった。

いーねーちゃんの口が閉じて、目が瞬いて。

次に開いたとき、もういつもの笑顔だった。

「……あら。何でもありませんわ。おやすみなさい」

部屋のドアが閉まった。

あたしは動けなかった。

たすけ…?

いーねーちゃんは、「助けて」と言いかけた?あの一瞬だけ、本当のいーねーちゃんが浮上してきて、助けを求めて――でも、すぐに沈んだ?

何かに、引きずり込まれるように?

雨の音が、やけに大きく聞こえた。

リビングの時計が、秒針の音を刻んでいる。
カチ、カチ、カチ。
……カチ。

秒針が、一度だけ、遅れた。

気のせいだ。時計が遅れることくらいある。

でも。

窓の外の雨が、一瞬だけ止まった気がした。水滴が空中で静止して、世界が息を止めたような、奇妙な空白。コンマ数秒。瞬きの間よりも短い。

気のせいだ。気のせいのはずだ。

――なのに。

あたしの心臓は、その一瞬を覚えていた。


翌朝。

いーねーちゃんはリビングに出てきた。ちゃんとした服を着ていた。いつものお嬢様スタイル。

すーねーちゃんが恐る恐る「おはよう」と言うと、いーねーちゃんは完璧な笑顔で「おはようございます、お姉様」と返した。あたしにも「おはよう、かっこ」。声は明るく、表情はにこやかで、何の問題もないように見えた。

昨日の格好のことには触れなかった。「助けて」と言いかけたことにも触れなかった。何もなかったかのように、朝食を食べて、紅茶を飲んで、ファッション誌を開いた。

完璧だった。

でも、前と同じ「完璧」じゃなかった。

前のいーねーちゃんの完璧さは、がんばって取り繕ったものだった。お嬢様ぶって、気取って、でも時々ボロが出て、それが愛嬌になっていた。

今の完璧さは、違う。ボロが出ない。隙がない。どこを見ても整っていて、どの角度から聞いても正しくて。

人間って、こんなに完璧にはならない。
完璧になれるとしたら、それは――

あたしは、その先を考えないようにした。

すーねーちゃんの方を見た。すーねーちゃんは、いーねーちゃんを見ていなかった。テーブルの上の、自分のほうじ茶を、じっと見つめていた。

その目が、昨日までの「止めなきゃ」という目じゃなかった。

もう、「止められない」と悟った目だった。

あたしは初めて、はっきりと理解した。

いーねーちゃんは、もう戻れないんだ。

あたしたちが知っていたいーねーちゃんは、もう――いない。

リビングで笑っているこの人は、同じ顔をして、同じ声をして、同じ名前を持っている。

でも、あたしたちのいーねーちゃんじゃない。

雨は、いつの間にか止んでいた。
窓の外には、不自然なほど晴れた空が広がっていた。

第2章 -了-

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