Chapter 2:次女崩壊
Act.2「全部、逆効果」
3人で話そう。
そう決めたのに、その機会はなかなか来なかった。
いや、正確に言えば、機会はあった。3人ともリビングにいる時間はいくらでもあった。でも、いざ「話そう」となると、いーねーちゃんがするりと話題を変えてしまう。まるで、こちらの意図を察しているかのように。楽しそうに、自然に、でもちょうどいい角度で、核心から逸れていく。
気づいたら雑談になっていて、「あれ、何の話するんだったっけ」となる。
すーねーちゃんと目が合う。すーねーちゃんも気づいている。でも、いーねーちゃんのペースに巻き込まれて、切り出せない。
あたしたちは焦り始めていた。
でも焦っていたのは、あたしたちだけだった。
すーねーちゃんが動いたのは、ある朝のことだった。
朝食の席で、いーねーちゃんがまたあたしに近い席に座った。椅子を寄せて、腕が触れるくらいの距離。あたしが何も言わずに少しだけ離れると、いーねーちゃんもまた少しだけ寄ってきた。
追いかけっこ。椅子の。
3度目に寄ってきたとき、すーねーちゃんが口を開いた。
「翠香」
また名前。
いーねーちゃんが顔を上げる。
「なんですの、お姉様」
「……かっこが離れたら、追いかけないで」
はっきり言った。すーねーちゃんにしては、かなり強い言い方だった。
「追いかけてなんかいませんわ。たまたま……」
「たまたまじゃないよ。3回続けてたまたまは、ないでしょ」
すーねーちゃんの声が硬い。あたしは黙ったまま2人を見ていた。
いーねーちゃんは一瞬、きょとんとして。
それから――ふっと笑った。
「……お姉様、怒ってますの?」
「怒ってない。心配してるの」
「心配? あたくしのことを?」
「うん。最近の翠香、前と違う」
「そうかしら。あたくしは変わっていないつもりですけれど」
「変わってるよ。距離の取り方も、言葉の選び方も。自分で気づいてないの?」
いーねーちゃんの笑みが、ほんの少しだけ固くなった。
「……気づいていない、と言ったら?」
「なら、今言ったから。気をつけて」
沈黙。
いーねーちゃんの目が、一瞬だけ揺れた。何かを探すような、あるいは何かを計算するような、不思議な目の動き。
そして。
「分かりましたわ、お姉様。気をつけますわ」
にっこり。
完璧な笑顔。完璧な返事。前と、まったく同じパターン。
すーねーちゃんの手が、テーブルの下で握りしめられているのが見えた。
すーねーちゃんは、諦めなかった。
次の日、いーねーちゃんがあたしの隣に座ろうとしたとき、すーねーちゃんが先にその席を取った。物理的にいーねーちゃんとあたしの間に入る。盾になるように。
いーねーちゃんはちょっと不満そうな顔をしたけど、何も言わなかった。ただ反対側の席に座って、いつも通りに朝食を食べた。
あたしは、すーねーちゃんに小さく「ありがとう」と目で伝えた。すーねーちゃんは微かに頷いた。
――これで少し、落ち着くかもしれない。
そう思ったのは甘かった。
昼過ぎ。すーねーちゃんが自分の部屋で仕事をしている間に、いーねーちゃんがリビングであたしの隣に座ってきた。朝と同じ距離。肩が触れる距離。
「……いーねーちゃん」
「なんですの?」
「近い」
「あら? これくらい、姉妹なら普通じゃありません?」
また「普通」。
「朝もすーねーちゃんに言われたでしょ」
「あれはお姉様が気にしすぎですわ。あたくしはただ、かっこの近くにいたいだけですのに」
近くにいたい。
普通の言葉だ。姉妹なら、家族なら、普通の感情だ。
なのに、いーねーちゃんがそう言うと、なぜか空気が重くなる。「近くにいたい」の「近く」が、物理的な距離だけを指していない気がする。もっと奥まで、もっと内側まで、踏み込もうとしている。
「……ちょっと離れてて」
「やだ」
また「やだ」。
「離れたくない」
いーねーちゃんがあたしの腕に、そっと手を添えた。指先が、手首を撫でるように動く。
「……っ」
反射的に腕を引いた。
「触んないで」
「あら。……そんなに嫌?」
いーねーちゃんの声。柔らかい。優しい。でも、その優しさの下に、何か別のものが透けて見える。執着、と呼ぶには穏やかすぎるし、愛情、と呼ぶには歪みすぎている。
「嫌っていうか……急に触ると驚くから」
「じゃあ、ゆっくり触ったらいい?」
「そういう問題じゃない」
あたしはソファから立ち上がった。距離を取る。物理的に。
いーねーちゃんはソファに残ったまま、あたしを見上げた。少し寂しそうな顔。でも目だけが笑っていた。目が笑っているのに、表情が寂しいのは矛盾しているはずなのに、いーねーちゃんの顔の上ではそれが同居していた。
「かっこって、意外と逃げるのね」
ぞくり、とした。
逃げる。
その言葉をいーねーちゃんが使ったこと自体が、もう、おかしかった。
その夜、すーねーちゃんがいーねーちゃんの部屋に入っていった。話をしに行ったのだ。あたしはリビングで待っていた。壁越しに声が聞こえる。
最初は穏やかだった。すーねーちゃんの声。諭すような、優しいトーン。「最近ちょっとね」「心配してるの」「前みたいに戻ってほしいの」。
いーねーちゃんの返事。「分かっていますわ」「ご心配なく」「大丈夫ですわ」。
それからしばらく、声が聞こえなくなった。
静寂。
そして――すーねーちゃんの声が、少し大きくなった。
「だから、そういうことじゃなくて……!」
すーねーちゃんが声を荒げた。あたしは息を呑んだ。この人が声を荒げるところなんて、ほとんど見たことがない。
「お姉様、落ち着いてくださいまし」
「落ち着いてるよ……! 落ち着いて言ってるの……!」
「怒っていますわね」
「怒ってない……心配してるの……! なんで分かってくれないの……」
声が震えている。怒りじゃない。泣きそうな声だ。
「あたくし、何も変わっていませんわ。お姉様が気にしすぎなだけですのよ」
「変わってるよ。変わってる。かっことの距離感も、言葉遣いも、触り方も、全部前と違う」
「そうかしら」
「そうだよ……!」
「でも、あたくしはこれが自然なんですの。無理してるわけじゃありませんわ。ただ、前より素直になっただけ」
素直。
壁越しでも、その言葉の嘘くささが分かった。いや、嘘じゃないのかもしれない。いーねーちゃんの中では本当に「素直になった」のかもしれない。でもそれは、元のいーねーちゃんが持っていた「素直」とは違う種類のものだ。
「お姉様だって、もっと素直になればいいのに」
いーねーちゃんの声が、急に柔らかくなった。
「そんなに頑張らなくても、いいんですのよ?」
沈黙。
「……っ……」
すーねーちゃんの息を呑む音が聞こえた。
それ以上の会話は聞こえなかった。
しばらくして、すーねーちゃんが部屋から出てきた。目が赤かった。
「……すーねーちゃん」
「大丈夫。大丈夫だから」
大丈夫じゃない顔をして、「大丈夫」と言った。
あたしは何も言えなかった。
翌日。
すーねーちゃんは作戦を変えた。
いーねーちゃんを無視し始めた。話しかけられても最小限の返事だけ。目を合わせない。距離を置く。「反応するから付け上がるのかも」——たぶんそう考えたんだと思う。
最初の数時間、いーねーちゃんは何も変わらなかった。すーねーちゃんに話しかけて、素っ気なく返されて、「あら」と言って引き下がる。それを何度か繰り返した。
でも、夕方あたりから空気が変わった。
いーねーちゃんが、すーねーちゃんをじっと見るようになった。
何も言わない。何もしない。ただ、少し離れた場所から、じっと。すーねーちゃんが本を読んでいるとき、台所にいるとき、洗面所から出てきたとき。振り返ると、いーねーちゃんがいる。笑っている。
あたしは気味が悪くなった。すーねーちゃんは平静を装っていたけど、指先がかすかに震えていた。
夜。
すーねーちゃんが自分の部屋に逃げ込むように入ったあと、いーねーちゃんがぽつりと言った。
「お姉様、怒ってるのかしら」
「……怒ってるんじゃなくて、困ってるんだと思うけど」
「困ってる? あたくしのことで?」
「うん」
「あら。困らせるつもりはありませんのに」
テーブルの上で指を組んで、いーねーちゃんは小さく首を傾げた。
「無視されるのって、少し寂しいですわ」
その声は、本当に寂しそうだった。
「……だったら、ちょっと距離感考えてくれれば、すーねーちゃんも普通に接するよ」
「距離感……」
いーねーちゃんが、その言葉を口の中で転がすみたいに、ゆっくり繰り返した。
「距離感って……あたくしはただ、好きな人の近くにいたいだけなのに」
好きな人。
家族のことだ。姉妹のことだ。そうに決まっている。
でも、その言い方は。
「……いーねーちゃん。頼むから普通にしてて」
「普通って、何?」
真っ直ぐに聞き返された。
「普通って、前みたいにしてってこと」
「前って、いつ?」
「いつって……前は前だよ。ファッション誌読んで、お嬢様みたいに喋って、でも中身はちょっと子どもっぽくて、そういういーねーちゃん」
「……それが、あたくし?」
「そうだよ」
いーねーちゃんが少し考えるように目を伏せた。
数秒。
顔を上げたとき、笑っていた。
「そうですわね。あたくしはあたくしですわ。……ふふ、変なことを言って、ごめんなさい」
いつもの完璧な笑顔。いつもの完璧な謝罪。
でも、もう、それを「安心」とは思えなかった。
深夜。
眠れなくて、水を飲みにリビングに出た。
暗いリビング。テレビは消えている。窓からの月明かりだけが、ぼんやりと家具の輪郭を浮かべている。
水を飲んで、グラスを置いて、部屋に戻ろうとした。
――廊下の角に、いーねーちゃんが立っていた。
暗闇の中、壁にもたれるようにして。
こちらを見ていた。
「……っ!」
心臓が跳ねた。
「えっ、いーねーちゃん……? なに、起きてたの……?」
「ええ。眠れなくて」
「……そ、そう」
「かっこも?」
「うん。水、飲みに」
月明かりがいーねーちゃんの顔を半分だけ照らしている。笑っているのか、無表情なのか、暗くてよく分からない。
「ねえ、かっこ」
「……なに」
「あたくし、変わった?」
その問いに、あたしは。
「……分かんない」
嘘をついた。
「そう」
いーねーちゃんが、暗闇の中で何かの表情を作った。笑みなのか、悲しみなのか、それとも全然違う何かなのか。月明かりはそこまで教えてくれなかった。
「おやすみなさい、かっこ」
「……おやすみ」
すれ違うとき、いーねーちゃんの指先があたしの手に触れた。
一瞬だけ。
冷たかった。
部屋に戻って、ドアを閉めて、鍵をかけた。
鍵をかけたのは、初めてだった。


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