Chapter 2:次女崩壊
Act.1「境界線」
いーねーちゃんは、約束を守った。
「ハレンチ」という言葉は、あの日以来ぴたりと止まった。すーねーちゃんに注意されて、あたしにも確認されて、それで素直にやめた。少なくとも表面上は。
――よかった。
あのときはそう思った。本気でそう思った。
でも、今ならわかる。あれは「やめた」んじゃなかった。
言葉が消えただけで、言葉の奥にあったものは消えていなかった。
最初に気づいたのは、距離感の変化だった。
いーねーちゃんは元々、パーソナルスペースが少し広い人だった。お嬢様っぽい口調に合わせるように、物理的にも一定の距離を保つタイプ。隣に座ることはあっても、べたべたくっつくことはなかったし、ボディタッチもほぼゼロだった。
それが、変わった。
「かっこ」
ソファでスマホをいじっていたら、いつの間にか隣にいーねーちゃんがいた。近い。肩と肩が触れる距離。
「……近くない?」
「あら、そう? これくらい普通じゃありません?」
「いーねーちゃんの普通はもうちょっと遠いでしょ」
「そうだったかしら」
きょとんとした顔。悪意がない。本気で分かっていないのか、分かっていて分からないふりをしているのか、判別がつかなかった。
「ねえ、何見ていますの?」
「別に。SNS」
「あたくしにも見せて?」
体を寄せてくる。腕が触れる。いーねーちゃんの髪の毛が頬にかかる。
「……自分のスマホで見なよ」
「やだ。一緒に見たいの」
やだ。
いーねーちゃんが「やだ」なんて言い方をしたことは、今まで一度もなかった。この人は拒否するにしても「ご遠慮いたしますわ」とか「あたくしは結構ですわ」とか、そういう言い回しをする。
「やだ」は、この人の語彙にない。
「……いーねーちゃん」
「なに?」
「今の、ちょっといーねーちゃんっぽくなかったよ」
「え? 何が?」
「『やだ』って。いーねーちゃんそんな言い方しないでしょ」
いーねーちゃんが数秒、きょとんとした。
それから、ふっと笑った。
「あら。そうですわね。……つい、口が滑りましたわ」
「……ふーん」
口が滑った。
そう言って笑ういーねーちゃんの表情は自然で、穏やかで、いつも通りで。
いつも通りすぎて、もう、それ自体が不自然だった。
距離感の異変は、日を追うごとに濃くなった。
朝、台所でお茶を淹れていると、後ろからそっと抱きつかれた。
「おはよう、かっこ」
「うわっ……! ちょっ、いーねーちゃん、熱いもの持ってるんだけど!」
「あら、ごめんなさい。でも、かっこのうなじがきれいだったから、つい」
うなじ。
「……なんであたしのうなじ見てんの」
「だって目に入りましたもの。髪、上げてるとよく見えて」
「見なくていいんだけど」
「ふふ。照れてる?」
「照れてない。怖いの」
冗談っぽく返したけど、半分は本気だった。
すーねーちゃんがリビングから顔を出した。
「……どうしたの? 何かあった?」
「なんでもないですわ、お姉様。スキンシップですの」
「スキンシップ……?」
すーねーちゃんが微妙な顔をした。「……あんまり、急に抱きついたりすると、びっくりするから……」
やんわりと。すーねーちゃんらしい、角の立たない注意。
「はい、気をつけますわ」
いーねーちゃんはすんなり引き下がった。
また、あの完璧な笑顔で。
昼過ぎ、3人でリビングにいるとき。
いーねーちゃんがまたファッション誌を読んでいた。ここまでは普通。ただ、開いているページが、いつもと違った。
「いーねーちゃん、今度は何を見てるの?」
「ランジェリー特集ですわ」
「ランジェリーって、下着だよね」
「違いますわ。ランジェリーはファッションの一部ですのよ」
「はいはい」
あたしは流した。下着の特集くらい、別にいい。ファッション誌にはよくある。
でも、いーねーちゃんがそこから発した言葉が問題だった。
「ねえ、かっこ」
「なに」
「あたくし、この黒いのが似合うと思いません?」
「知らないよ、自分で判断して」
「でも、聞きたいの。……ねえ、あたくしに似合うと思う?」
声のトーンが、変わった。
さっきまでの軽い調子じゃなくて、もっと……湿度の高い、まとわりつくような声。同じ言葉を繰り返しているのに、2度目の「似合うと思う?」は、1度目と全く違う質感だった。
あたしは雑誌から目を逸らした。
「……いーねーちゃん」
「なんですの?」
「その聞き方、やめて」
「え、何がいけませんの?」
首を傾げるいーねーちゃん。本当に分からないという顔。いや、分からないはずがない。自分の声の変化に気づかないわけがない。
でも。
もし本当に気づいていないのだとしたら。
それは、もっと怖い。
「……普通に聞いてくれればいいんだけど」
「普通に聞いてますわよ?」
「いや、今の全然普通じゃなかったんだけど」
「あら……そうかしら。ごめんなさい」
また笑う。また完璧に笑う。
ソファの端で、すーねーちゃんが黙ったままこちらを見ていた。唇が、わずかに引き結ばれていた。
夕方、すーねーちゃんと2人きりになった。いーねーちゃんは自分の部屋に戻っている。
あたしが台所で夕飯の支度をしていると、すーねーちゃんがそっとそばに来た。
「……ねえ、かっこ」
「ん」
「翠香のこと、なんだけど」
名前で呼んだ。この前の食卓のときと同じだ。「いーちゃん」でも「あの子」でもなく、翠香。わざわざ名前を使うのは、すーねーちゃんなりの真剣さの表れだった。
「最近、ちょっと心配なの」
あたしは包丁を置いた。
「……あたしも」
「やっぱり、気づいてたんだ」
「気づくよ。あれだけ変わったら」
すーねーちゃんが少し安心したような、でもそれ以上に困ったような顔をした。
「わたし、どうしたらいいのかな」
「どうしたらって……」
「注意しても、すぐ『分かりました』って受け入れるでしょ? でも全然直ってない。……直ってないどころか、もっと……」
言い淀んだ。
「もっと?」
「もっと、こう……近くなってる気がする。物理的にも、言葉的にも。なんか、境界線がなくなっていくみたいで」
境界線。
すーねーちゃんが選んだその言葉が、ぴったりだった。
いーねーちゃんの変化は、「ハレンチ」みたいな特定のワードの問題じゃない。もっと根っこの部分――人と人の間にある見えない線が、この人の中で溶けている。それが距離感や言葉遣いや声のトーンに滲み出ている。
でも、「いーねーちゃんの境界線が溶けてるから気をつけよう」なんて、どうやって対処すればいいんだ。
「とりあえず……様子見るしかなくない?」
「様子見……」
「もうちょっと続くようなら、ちゃんと話そう。3人で」
「……うん。そうだね」
すーねーちゃんが小さく頷いた。
「ありがとう、かっこ。1人で抱えてるの辛かったから」
「……別に。あたしだって気になってたし」
そのとき。
リビングの奥で、何かが鳴った。テレビの電源が、誰も触れていないのに、一瞬だけ入って、すぐ消えた。ブツッ、という短いノイズだけを残して。
「……今の何?」
「リモコン踏んだのかな……」
すーねーちゃんがリビングを見に行った。リモコンはテーブルの上に置いてあって、誰も踏める位置にはなかった。
「……変だね。接触不良かな」
「たぶんね」
そう答えながら、あたしは廊下の奥――いーねーちゃんの部屋のドアを見た。
閉まっている。静かだ。
なのに、なぜだろう。あのドアの向こうから、見られている気がした。
気のせいだ。
気のせいのはずだ。


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