Chapter 1:日常と違和感
Act.3「笑顔の裏側」
それからしばらく、あたしは意識的にいーねーちゃんを観察するようになった。
観察、なんて大げさな言い方だけど、要するに「気にして見ている」というだけのことだ。あの夜の会話が引っかかっていたのは確かで、でもだからといって何か具体的なアクションを取るほどでもなくて。ただ、ちょっと気にしている。その程度。
で、結論から言うと――数日間は、何もなかった。
いーねーちゃんは普通にお嬢様口調で喋り、普通にファッション誌を読み、普通にカレーを推してきた。あたしはいつも通りツッコんで、すーねーちゃんはいつも通りドジを踏んだ。平和だった。
やっぱり考えすぎだったか。
そう思い始めた頃に、それは来た。
きっかけは、本当にくだらない話だった。
リビングでテレビを見ていたら、ドラマの再放送をやっていた。恋愛もの。女優さんがオフショルダーのワンピースを着ていて、すーねーちゃんが「わあ、きれい」と言い、あたしが「ドラマの衣装って気合い入ってるよね」と返した。
いーねーちゃんが画面を見つめたまま、言った。
「あの服、ハレンチですわね」
「……え?」
一瞬、聞き間違いかと思った。
「ハレンチ?」
「ええ。だって肩が丸出しですわよ? あんなに見せて、ハレンチですわ」
言い方は冗談っぽかった。実際、いーねーちゃんの顔にはいつもの余裕のある笑みが浮かんでいた。でも「ハレンチ」なんて言葉、この人の口から聞いたのは初めてだった。普段なら「品がない」とか「大胆すぎる」とか、もう少し回りくどい言い方をする人だ。
「……ハレンチって。いーねーちゃんにしては直球だね」
「あら、そう? でもぴったりだと思いません? ハレンチ。ハ・レ・ン・チ」
区切って繰り返した。
すーねーちゃんが小さく笑った。「面白い言葉だよね、ハレンチって。なんか響きが」
「ええ。響きがいいんですのよ。ハレンチ。ふふ。気に入りましたわ」
――気に入った?
言葉を「気に入る」ことは誰にでもある。新しいスラングを覚えて使いたがるとか、響きが面白くて繰り返すとか。でも、いーねーちゃんが「ハレンチ」を気に入る、というのが、なぜかしっくりこなかった。
この人の語彙の棚に、その言葉は入っていなかったはずだ。
「……まあ、好きに使えばいいけど」
「使いますわ。積極的に」
「いや、積極的に使う言葉じゃないでしょ」
軽くツッコんで、終わり。
そのはずだった。
問題は、そのあと。
翌日。朝食の席で、いーねーちゃんがトーストを焼きながら唐突に言った。
「かっこ、今日の服、ハレンチ度が低いですわね」
「……朝からハレンチ度の話する?」
「だって、昨日よりずいぶん地味ですもの。もっと攻めてもよろしくてよ?」
「別に攻めたくないんだけど」
「あら。あたくしなら攻めますわ」
「いーねーちゃん攻めすぎると、また変な方向に行くからやめて」
冗談として処理した。すーねーちゃんも苦笑していた。
でも、その日の午後にもいーねーちゃんは「ハレンチ」を使った。テレビのCMに出てきた水着の広告を見て、「あら、ハレンチですわ」。雑誌の夏服特集を開いて、「このスカート丈はなかなかのハレンチですわね」。
何度も。何度も。
最初は冗談として笑えた。2度目は「また言ってる」で流せた。でも3度、4度と重なると、笑いの成分が薄れていく。代わりに残るのは、説明できない居心地の悪さだった。
人が同じ言葉を繰り返すとき、そこには何か理由がある――と思いたいけど、いーねーちゃんの場合、理由が見えない。新しい言葉を覚えた子どもみたいに、ただ使いたくて使っている。でもこの人は子どもじゃない。大学生だ。
いや。
大学生だから大人だ、なんて保証は別にないんだけど。
「ねえ」
夕方、台所で夕飯の準備をしていたとき、いーねーちゃんがまた声をかけてきた。
「かっこって、ハレンチなのとそうじゃないの、どっちが好き?」
「……質問の意味がわかんないんだけど」
「そのままの意味ですわ。あたくしのこと、普通のあたくしとハレンチなあたくし、どっちがいい?」
包丁を持つ手が、一瞬止まった。
「……なに言ってんの」
「あら、変なこと言いました?」
「変なことしか言ってないよ」
笑いながら返したけど、うまく笑えてなかったと思う。
「ふふ。冗談ですわ」
いーねーちゃんはそう言って、リビングに戻っていった。
その後ろ姿を見ながら、あたしは玉ねぎを切る手を再開した。目にしみた。玉ねぎのせいだ。
夕食のとき、それは起きた。
3人でテーブルを囲んで、あたしが作った料理を食べていた。すーねーちゃんが「おいしい」と言い、いーねーちゃんが「かっこは料理の才能がありますわね」と褒め、あたしが「まあね」と返す。いつもの流れ。
そのあと、いーねーちゃんがにこっと笑って言った。
「ところで、お姉様はハレンチな格好って、したことあります?」
空気が、止まった。
すーねーちゃんの箸が止まる。あたしの箸も止まる。テレビの音だけがやけに大きく聞こえた。
「……え?」
すーねーちゃんが困惑した顔でいーねーちゃんを見た。
「だって、お姉様っていつも地味めじゃないですの。たまにはもっと大胆に――」
「……ちょっと待って」
すーねーちゃんの声のトーンが、変わった。
あたしは驚いた。すーねーちゃんがこの声を出すことは、ほとんどない。いつもはふわふわしていて、やんわりしていて、怒ってもせいぜい「もう……」で終わるこの人が。はっきりと、低い声で。
「翠香」
名前を呼んだ。
あたしたちの間で、名前が呼ばれることは滅多にない。3人とも同じ名前だから、普段は「お姉様」や「すーねーちゃん」、「いーちゃん」や「いーねーちゃん」、「かっこ」で回している。だからこそ、名前を呼ばれるという行為は重い。
「最近ちょっとおかしいよ。その『ハレンチ』っていうの、もうやめて」
真っ直ぐな目だった。ドジで、寝癖がひどくて、玉ねぎで泣く、あの柔らかいすーねーちゃんの目じゃなかった。ちゃんと「姉」の目をしていた。
いーねーちゃんは一瞬、動きを止めた。
すーねーちゃんの目を見つめ返して、数秒。
あたしは息を止めた。
いーねーちゃんがどう返すのか。怒るのか。泣くのか。反論するのか。
――いーねーちゃんは、笑った。
「あら」
いつもの笑顔。ちょっとお高くとまった、余裕のある微笑。完璧な弧を描く唇。穏やかに細められた目。
「ごめんなさい、お姉様。不快にさせてしまいましたわね。もう言いませんわ」
あまりにもあっさりと。あまりにも綺麗に。
何事もなかったように箸を取り直して、料理を口に運ぶいーねーちゃん。
「おいしいですわね、これ。かっこ、味付け変えました?」
「……いや、いつも通りだけど」
「あら、そう。なんだか今日はいつもよりおいしく感じますわ」
にこにこ。
――怖い。
なんで怖いのか、すぐには言葉にできなかった。だっていーねーちゃんは謝った。やめると言った。すーねーちゃんの注意をちゃんと受け入れた。それは正しい反応のはずだ。
でも。
あまりにも正しすぎた。
人が本気で指摘されたとき、あんなに綺麗に笑えるだろうか。傷つくとか、戸惑うとか、ちょっとムッとするとか、そういう「人間の反応」が一切なかった。指摘を受けて、処理して、笑顔を出力した。まるで――
……まるで、なに?
うまく言葉にできない。
すーねーちゃんの方を見た。すーねーちゃんは箸を動かしていたけど、目はいーねーちゃんを見ていた。さっきの強い目ではなく、もっと――不安そうな、確かめるような目で。
あたしと目が合った。
ほんの一瞬。
すーねーちゃんの目が、「あなたも気づいた?」と言っていた。
あたしは目を逸らした。
夜。
いつものように、すーねーちゃんが先に寝落ちした。いーねーちゃんがブランケットをかけた。あたしは食器を片付けた。全部いつも通り。
すーねーちゃんを部屋に連れて行って、いーねーちゃんが「おやすみなさい」と言って自分の部屋に戻る。あたしも「おやすみ」と返す。いつも通り。
でも。
いーねーちゃんが部屋に入る直前、こちらを振り返った。
「ねえ、かっこ」
「……なに」
「『ハレンチ』、やめたほうがいい?」
さっき、「もう言いませんわ」って言ったじゃん。
そう返そうとして――言葉が出なかった。
いーねーちゃんの顔は、笑っていた。いつものお嬢様スマイル。完璧な微笑み。さっきとまったく同じ顔。
まったく同じなのに、全然違って見えた。
「……やめたほうがいいと思う」
「あら、そう」
微笑んだまま。
「分かりましたわ。じゃあ、やめますわね」
部屋のドアが閉まった。静かに。丁寧に。
廊下に、あたし1人が残された。
足元が冷たかった。いつの間にかリビングの電気は消えていて、テレビのスタンバイランプの小さな赤い光だけが残っていた。
――この赤い光を、ずっと前にも見た気がする。
同じ場所で、同じ暗闘の中で。
でもそんな記憶は、あるはずがない。
あたしはゆっくりと自分の部屋に向かいながら、言葉にならない不安を飲み込んだ。
何かがおかしい。
でも、それが何なのかが分からない。分からないことが、一番怖かった。
いーねーちゃんは笑っていた。いつも通りに。完璧に。
その完璧さが、今はもう――冗談では済まない何かに見えていた。
第1章 -了-

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