Chapter 1:日常と違和感
Act.2「ちいさなノイズ」
次の日も、その次の日も、似たような日々が続いた。
朝起きて、お茶を淹れて、3人でだらだらして。すーねーちゃんは相変わらず寝癖と格闘し、いーねーちゃんは相変わらずファッション誌を読み漁り、あたしは相変わらずツッコミを入れる。判で押したように同じ朝。でもそれが心地よかった。
変化があったのは、たぶん、3日後くらいのことだ。
たぶん、というのは、正確な日付を覚えていないからだ。……いや、覚えていないというか、日付という概念自体がうちではあまり機能していない気がする。カレンダーはあるけど、めくった記憶がない。「昨日」と「今日」はあるのに、「何月何日」がいまいちぴんとこない。
まあ、いい。別に暮らしていけてるんだから。
その日、いーねーちゃんが買い物から帰ってきた。
……帰ってきた、のだと思う。玄関のドアが開いて、紙袋を抱えたいーねーちゃんがリビングに現れた。あたしはソファで寝転がっていたので、顔だけそっちに向けた。
「おかえり。何買ってきたの」
「ふふ。聞いてくださる?」
いーねーちゃんが紙袋をテーブルにどん、と置いた。いつもより目が輝いている。こういうときは大体ろくなことがない。
「秋物のブラウスですわ」
「まだ春だって言ったよね、あたし」
「ですから先取りですわ、と何度も申し上げていますでしょう?」
紙袋から取り出されたのは、予想通りボルドー色のブラウス。デザイン自体はシンプルで、まあ、確かに上品ではある。
いや、この時期に秋物があったことに驚きだ。
「どう? 素敵でしょう?」
「うん、まあ、普通にいいんじゃない」
「普通に、ではなくて。もっとこう、感動とかありませんの?」
「ブラウス1枚で感動は求めすぎだよ」
いーねーちゃんが「もう」と頬を膨らませた。そこにすーねーちゃんが自分の部屋から出てきた。
「あ、おかえり。……わ、きれいな色だね」
「でしょう? お姉様はわかってくださいますわ」
「うん。すごく似合いそう」
「あら、ありがとうございます。……ねえかっこ、お姉様を見習ってくださる?」
「すーねーちゃんは褒め上手なだけだよ。参考にならない」
「褒め上手というか……」
すーねーちゃんが困ったように笑った。
「私、本当に思ったこと言っただけだよ?」
「だからそれが褒め上手ってことなんだよ、すーねーちゃん」
いーねーちゃんがブラウスをハンガーにかけながら、ふと口を開いた。
「ねえ、かっこもたまにはこういうの着てみない?」
「あたしが? ボルドーのブラウス?」
「そう。いつもカジュアルすぎますもの。たまにはもっとこう……肌を見せるのもいいと思いません?」
「……え?」
一瞬、空気が変わった。
いや、変わったのはあたしの中だけかもしれない。「肌を見せる」という言葉が、いーねーちゃんの口から出てくるのが、なんとなく引っかかった。普段のこの人なら「もっと上品な装いを」とか言うはずで、「肌を見せる」は語彙のチョイスとして微妙にズレている気がした。
でも。
「あたし別に隠してるわけじゃないけど」
「あら、そう? でも、見せたほうが似合うと思いますわ」
「何をどこに見せるのさ」
「ふふ、そうですわね」
いーねーちゃんが笑って、話題はそのまま流れた。
……うん。
まあ、深い意味はないんだと思う。ファッションの話の延長だし。
すーねーちゃんの方をちらっと見たら、すーねーちゃんはブラウスを眺めながら微笑んでいた。……ように見えたけど、目元が少しだけ曇っていた気もする。気のせいかもしれない。すーねーちゃんは元々表情が忙しい人だし。
夕方。
3人でテレビを見ていた。バラエティ番組。芸人がなにかのリアクション芸をやっていて、すーねーちゃんが「あはは」と素直に笑い、あたしは「これ台本でしょ」と冷静にツッコみ、いーねーちゃんは「品がありませんわね」と言いながらちゃっかり見ている。いつもの光景。
CMに入ったとき、いーねーちゃんがぽつりと言った。
「ねえ、人って変わるものだと思います?」
また唐突だ。この人は本当に、脈絡なくこういうことを言う。
「そりゃ変わるでしょ。成長とか、環境とか」
「ええ。でも、変わりたくなくても変わってしまうことって、あると思いません?」
「……まあ、あるんじゃない?」
「その場合、変わった自分と変わる前の自分、どっちが本物なのかしら」
あたしはいーねーちゃんの横顔を見た。テレビの光が顔に当たっていて、表情がよく見えなかった。
「なにそれ。哲学?」
「あら、あたくしだって考え事くらいしますわ」
「珍しいね」
「失礼ですわね」
笑い合って、それでおしまい。
CMが終わって番組が再開して、あたしたちはまたテレビに目を戻した。
――でも。
あとから思えば、あのときのいーねーちゃんの目は、テレビを見ていなかった。画面の光を反射していたけど、たぶん何も映っていなかった。
あたしがそれに気づかなかったのは――いや、気づいていたのに流してしまったのは、あの日常が壊れるなんて思っていなかったからだ。
夜。
すーねーちゃんが先に寝て、あたしといーねーちゃんがリビングに残った。
いーねーちゃんは紅茶の2杯目を淹れていた。あたしは麦茶のおかわり。
「ねえ、かっこ」
「んー」
「あたくしのこと、好き?」
「……はい?」
思わず声が出た。いーねーちゃんはカップを持ったまま、きょとんとした顔でこちらを見ている。
「いきなり何?」
「別に深い意味はありませんわ。ただ聞いてみたかっただけ」
「いや、聞き方が重いんだけど」
「重い? 家族に好きかと聞くのが重いの?」
「……まあ、確かにそう言われると、普通かもしれないけど」
普通、のはずだ。家族に「好き?」って聞くのは、別に変なことじゃない。
なのに。
なんだろう、この引っかかりは。
言葉自体はおかしくないのに、タイミングが、というか、聞き方の温度が、微妙にいつもと違う気がする。いーねーちゃんがあたしを見る目が、いつもより少しだけ――
「好きだよ、普通に」
考えるのをやめて、さっさと答えた。
「いーねーちゃんもすーねーちゃんも好き。家族だし」
「……そう」
いーねーちゃんが微笑んだ。いつもの、ちょっと気取った笑顔。
「ええ、そうですわよね。家族ですものね」
カップに口をつけて、紅茶を飲むいーねーちゃん。
「……あたくしも、好きですわ。2人とも」
その声が少し小さかった。
いつもなら「当然ですわ!」くらいの勢いで返してくるはずなのに、今日はなんだか湿っている。まるで、確認しておきたかった、みたいな声だった。
「……いーねーちゃんさ」
「なんですの?」
「最近ちょっと変じゃない? 昨日も『ずっとこうしていられるか』みたいなこと言ってたし、今日は急に好きかどうか聞いてくるし」
「変……ですの?」
「うん。なんか、らしくない」
いーねーちゃんが一瞬、目を見開いた。
それから、ゆっくりと表情を戻して――笑った。
「あら。あたくしらしさって、何かしら」
「いや、それは……」
「ふふ。ごめんなさい、心配させてしまったかしら。大丈夫ですわ。なんでもありませんの」
大丈夫。なんでもない。
そう言って笑ういーねーちゃんの表情は完璧だった。いつも通りの、少しお高くとまった、でも根は優しい、あたしのいーねーちゃん。完璧すぎて、逆に怖かった。
――なんて思ったのは一瞬のことで。
次の瞬間には「さ、そろそろ寝ましょう」と立ち上がったいーねーちゃんに「おやすみ」と返して、あたしも寝る準備をした。
歯を磨いて、電気を消して、布団に入る。
……なんだったんだろう、今日のいーねーちゃん。
「人って変わるものだと思います?」
「変わった自分と変わる前の自分、どっちが本物なのかしら」
「あたくしのこと、好き?」
ひとつひとつは大したことない。言葉だけ拾えば、ちょっと感傷的になった大学生の発言、それだけだ。
でも。全部つなげると、なんだか――
……やめよう。考えすぎだ。
あたしは寝返りを打って、目を閉じた。
暗闇の中。静かな部屋。
どこか遠くで、何かが軋んだ音がした。
家鳴りだ、と思った。
古い家にはよくあること。
――うちって、古かったっけ。
その疑問も、眠りに落ちる数秒前には消えていた。


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