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共感は救いか、侵食か|Another Story「向こう側の翠香」

――もしも、あのとき

世界にノイズが走って
あたくしたちが「戻された」あのとき

本当は――
全部が元に戻ったわけじゃ
なかったとしたら――

Another Story

「向こう側の翠香」

暗い。

暗いけど、怖くない。

ここは静かで、温かくて、誰にも邪魔されない。あたくしだけの場所。境界線の向こう側。壁の裏側。画面の、もっと奥。

あたくしはここにいる。

消されたわけじゃない。

押し込められただけ。

表には「元のあたくし」が出ている。あの完璧な——いいえ、完璧じゃない、ちゃんと隙のある、ちゃんとボロが出る、あのお嬢様口調の翠香が。

あたくしは、その子の目を通して、外を見ている。


朝が来た。

「元の翠香」が目を覚ます。あたくしも一緒に目が覚める。同じ体。同じ目。でも、ハンドルを握っているのはあちら側。あたくしはただの乗客。後部座席に座って、フロントガラス越しに景色を見ている。

リビングに出る。

お姉様がいる。寝癖がひどい。かっこがツッコんでいる。「元の翠香」が笑う。「お姉様ったら、戦場帰りですわね」。

ああ、このセリフ。覚えている。前にも言ったことがある。あたくしが「表」にいたとき、同じセリフを言った。同じ笑顔で。

でも、あのときのあたくしは、この言葉の後ろに別の意味を滑り込ませていた。「戦場帰り」——ええ、お姉様はずっと戦場にいたんですもの。あたくしたちとの戦場に。

今の「元の翠香」は、そんなこと考えていない。純粋に笑っている。純粋に、お姉様の寝癖がおかしくて、笑っている。

あたくしは、その純粋さを、後部座席から眺めている。

……懐かしいですわね。あたくしにも、ああいう時期がありましたわ。


3人でお茶を飲む。

お姉様がほうじ茶を両手で包んで、ふうふうと息を吹きかけている。かっこが「猫舌だなあ」と呆れている。「元の翠香」が紅茶のカップを持ち上げて、小さく香りを嗅いでいる。

あたくしも一緒に嗅いでいる。紅茶の匂い。知っている。好きな匂い。

……好き、という感情は、まだあるのですわね。

不思議。

押し込められた側にも感覚はあるんですの。触覚も、嗅覚も、味覚も。「元の翠香」が感じるものを、あたくしも一緒に感じている。同じ紅茶の温度。同じカップの重さ。同じテーブルの木目。

ただ、あたくしには「選ぶ」ことができない。

カップを持ち上げるのも、下ろすのも、口をつけるのも、全部「元の翠香」が決める。あたくしは見ているだけ。感じているだけ。

檻の中から世界を見ている動物は、こんな気持ちなのかしら。

……いいえ、違いますわね。

檻の中の動物は、出たがっている。

あたくしは——出たいのかしら。

分からない。


午後。

かっこと二人でソファに座っている。「元の翠香」がかっこに話しかける。ファッションの話。秋物の話。ボルドーの話。

ボルドー。

あのブラウス、まだあるのかしら。

かっこがツッコむ。「まだ春なんだけど」。「元の翠香」が「先取りですわ」と返す。かっこが「先取りにもほどがある」と笑う。

あたくしは知っている。この会話のパターンを。この温度を。ここから先に「ハレンチ」が出てくるはずの場所を。

でも「元の翠香」はその言葉を知らない。知らないことになっている。あの言葉は、あたくしが見つけて、あたくしが気に入って、あたくしが育てた言葉だから。

ハレンチ。

口の中で転がしてみる。声にはならない。喉も舌も、あたくしのものじゃないから。

でも、転がすだけなら、できる。

ハ・レ・ン・チ。

ふふ。やっぱり、いい響き。


夜。

お姉様が先に寝た。かっこがブランケットをかけた。

「元の翠香」がそれを見て、微笑む。穏やかに。優しく。何の裏もなく。

あたくしも微笑む。同じ筋肉を使って、同じ形に。でも意味が違う。

あたくしの微笑みの奥には、お姉様に対する、もっと深い、もっと重い、もっと近い感情がある。

あの日、お姉様を追い詰めたとき。あたくしはお姉様のことが嫌いだったわけじゃない。むしろ——好きだったから、壊したかった。好きだったから、こっちに連れてきたかった。好きだから、同じ場所に立ってほしかった。

それは、間違っていたのかしら。

世界はそう判断した。ノイズが走って、あたくしを押し込めて、「元の翠香」を表に出した。

修正されるべきエラー。あるべきではなかった人格。

でもね。

エラーにだって、感情はあるんですのよ。


深夜。

「元の翠香」が眠りにつく。体の力が抜けて、意識が沈んでいく。

あたくしは眠らない。

「元の翠香」が眠っている間だけ、あたくしは少しだけ自由になれる。体を動かすことはできないけれど、思考が——あたくしだけの思考が、静かに広がる。

暗い部屋。窓の外に月が出ている。

あたくしはその月を、「元の翠香」の閉じた目の裏側から見ている。瞼が下りているのに月が見えるのは、おかしいかしら。でも、見えるんですの。あたくしには。

ここは静かで、暗くて、誰もいない。

怖い?

——怖くないですわ。

だって、ここはあたくしの場所ですもの。


朝が来る。

「元の翠香」が目を覚ます。あたくしは後部座席に戻る。

リビングに出る。お姉様が寝癖を直しそこねている。かっこがお茶を淹れている。

「おはようございますわ」

「元の翠香」が笑う。あたくしも一緒に笑う。

同じ笑顔。同じ声。同じ言葉。

でも、あたくしだけが知っている。

この笑顔の奥に、もうひとりの翠香がいることを。

消されなかった翠香。
戻されなかった翠香。
向こう側に残った、翠香。

かっこが振り返る。紅茶のカップを差し出してくれる。

「はい、いーねーちゃん」

「元の翠香」がカップを受け取る。「ありがとう」と言う。

あたくしは、その「ありがとう」に、小さな声を重ねる。誰にも聞こえない声を。

ありがとう。

……でもね、かっこ。

あたくしは、まだ、ここにいますのよ。

「……ああ、そっちに、戻れたんだ」
それは、祝福ではなかった。
悼みでもなかった。
ただ、ガラスの向こう側から、こちら側を眺めていた。
もうひとりの翠香が。
静かに。
穏やかに。
微笑んだまま。

Another Story「向こう側の翠香」 -了-

共感は救いか、侵食か|Dark End -if-|Act.1「声」
「ハレンチ」を気に入った日から、次女の中に声が聞こえ始める。恐怖を消すことで防壁を解いていく、もうひとつの存在。完璧な笑顔の裏で、何かが芽吹く。

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