なぐり書きの呼吸
——営業三課・黒沼係長の伝説について
どの会社にも一人はいる。
仕事はできる。数字も取れる。部下の面倒見もいい。——ただ、字が絶望的に汚い人間が。
営業三課、黒沼誠一郎。三十八歳。勤続十六年。
社内での通り名を、「なぐり書きの呼吸の使い手」という。
名付けたのは、当時新人だった片桐である。以来その呼び名は社内に静かに浸透し、いつしか黒沼の筆致には「型」まで分類されるようになった。
これは、その記録である。
基本にして奥義。すべてはここから始まる。
黒沼の字は、一画目からもう読めない。読ませる気がない、のではなく、本人は至って真剣に丁寧に書いている。それでも読めない。そこに人々は閃きすら感じたという——読めないという閃き。いや、そもそも閃く要素がないのだが。
伝説の始まりは、新卒一年目。黒沼が書いた出張報告書を、当時の課長が三十分かけて読もうとし、最終的に本人を呼んで音読させた、という事件だ。
「はい」
「俺には『石寿屋』に見える」
「石寿屋ってなんですか」
「こっちが聞きたい」
走り書きのメモにおいて、黒沼の文字からは画数が脱落する。刃で斬り落としたかのように、容赦なく消える。
ある日、取引先との電話中に黒沼が残した伝言メモ。
ムラ上様 折返し 090-XXXX 至急 木寸についてゴ木目談
受け取った後輩の宮田は、十分間これと向き合った末、「村上様・至急・木材の件についてご相談」であることを解読した。
宮田はそのメモを捨てずにデスクの引き出しにしまった。何かの暗号資料だと思ったからではない。ここまで来ると、むしろ芸だと思ったからだ。
字が乱れるだけではない。行そのものが乱舞する。
黒沼がノートに書いた議事録は、一行目が左端から始まり、三行目で中央に移動し、五行目で右端に到達している。罫線という概念を無視して、文字列がノートの上を自由に踊る。
あるとき、経理の山田さんが黒沼のノートを覗き込んで言った。
「ないです」
「ないんだ」
片桐が横からこう評した。
「やめろ片桐」
黒沼が急いでいるとき、文字はもはや文字ではなくなる。一本の連続した波線になる。ミミズが一列になって行進しているようにしか見えない。
営業先から帰社した黒沼が、息を切らしながらホワイトボードに書いた伝達事項。
居合わせた五人の社員が全員、別の読み方をした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
後藤:「西田さんから電話ください」
山田:「手紙は週末まで」
片桐:「心電図?」
部長:「…………」
正解は、「四月の本社会議を水曜に変更」だった。
誰も一文字もかすっていなかった。
契約書、稟議書、回覧板。サインを求められる場面で、黒沼の署名はその真価を発揮する。
「黒沼」という二文字が、書くたびに違う形になるのだ。
ある監査の日、外部の会計士が過去一年分の黒沼の署名を並べて、困惑した顔でこう言った。
「同一人物です」
「……本当に?」
「本当です。全部、黒沼です」
片桐はこのエピソードを聞いて、こう言った。
「褒めてないだろ片桐」
「褒めてない」
最終奥義。なぐり書きの呼吸の、最も深い領域。
書いた本人が読めない。
月曜朝。黒沼が自分のデスクに貼った付箋を見つめて、三分間固まっていた。宮田が声をかけた。
「……金曜に自分で書いたメモなんだけど、読めない」
「え」
「何を書いたか、まったく思い出せない」
宮田が覗き込んだ。付箋には、何かが書いてあった——いや、何かが描いてあった。
判読できたのは、かろうじて「月」と「!」だけ。あとは線の集合体だった。
「たぶんそうだと思う」
「何を、ですか」
「だからそれが読めないんだって」
黒沼は付箋を剥がし、丁寧に折りたたんで、ゴミ箱に捨てた。月曜にやるはずだった何かは、永遠に闇に葬られた。
エピローグ
年度末。社内報の「部署紹介コーナー」で、営業三課が特集された。
写真撮影のとき、カメラマンが言った。
黒沼がマーカーを手に取った瞬間、三課全員の空気が変わった。
「止めなくていいんですか」
「いい。見届けよう」
黒沼は満面の笑みで、ホワイトボードにこう書いた。
今期も全力で頑張ります!
——と、本人は書いたつもりだった。
社内報に載ったその写真の下には、編集部による注釈がひっそりと添えられていた。
※ホワイトボードの文字は「今期も全力で頑張ります!」と書かれています。



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