出会いの、みきょんじゅり[第7話]

出会いの、みきょんじゅり
第 7 話

「みかんゼリーをもう一度」

連絡が途絶えてから、1ヶ月が経とうとしていた。


仕事には行っていた。飯も食っていた。息もしていた。生きてはいた。だが、それだけだった。心のどこかに穴が空いていて、そこから大事なものが静かに漏れ出していくような感覚が、ずっと続いていた。

彼女のことを考えない日はなかった。スマートフォンを開くたびに、メッセージを打ちかけては消した。何度も。何十回も。


「元気か?」——違う。軽すぎる。

「会いたい」——違う。重すぎる。

「話がしたい」——何を話す?話せなかったから、こうなったんだろう。


結局、何も送れなかった。


ビザの期限まで、あと1ヶ月半。

ある日の朝、目が覚めて、天井を見つめていた。休日だった。何の予定もない。誰とも会わない。どこにも行かない。ただ、この部屋で1日が過ぎるのを待つだけの休日。

こういう休日を、俺は以前も過ごしていた。彼女に出会う前。仕事に疲れ果てて、誰にも会いたくなくて、布団の中で丸くなっていた頃。


あの頃に戻ったのか。

そう思ったとき、ふと、視界の端に登山靴が映った。


玄関の靴箱の横に、出しっぱなしになっていた。あの日——彼女と出会った日に履いて、そのまま仕舞い忘れていたのか。薄く埃を被っている。

また、埃を被らせてしまった。


俺は起き上がった。


理由はうまく説明できない。考えて決めたわけじゃない。ただ、あの登山靴を見た瞬間、体が動いた。顔を洗って、着替えて、リュックを引っ張り出した。

水筒にほうじ茶を入れた。

そして——コンビニで、みかんゼリーを買った。


なぜみかんゼリーを買ったのか。あの日の再現がしたかったのか。彼女との思い出に浸りたかったのか。自分でもわからない。ただ、手が伸びた。あのオレンジ色に、また引き寄せられた。


車を走らせた。1時間。馴染みの山。あの山。

駐車場に車を停めて、登山靴の紐を結ぶ。この動作をするのは、2度目だ。1度目は、仕事に疲れ果てて逃げるように来た日。今日は——今日は何だろう。何をしに来たんだろう。

わからないまま、歩き始めた。


季節が変わっていた。あの日は秋だった。今は初夏。木々は深い緑に覆われ、足元には夏草が茂り始めている。空気が違う。匂いが違う。光の色が違う。

だけど、道は同じだった。あの日と同じ道。同じ勾配。同じカーブ。体が覚えていた。


歩きながら、考えていた。


俺は何を恐れているんだろう。

彼女がいなくなること?それは怖い。だけど、いなくなることが怖いなら、なぜ連絡を取らない。自分から距離を置いて、自分で自分を苦しめて、何をやっているんだ。


違う。本当に怖いのは、そこじゃない。

——踏み込むことが、怖いんだ。


名前のない関係は、心地よかった。責任がないから。失敗しないから。名前をつけなければ、終わることもない。ずっと曖昧なまま、ふわふわと浮いていられる。

だが、彼女のビザには期限がある。時間は曖昧さを許してくれない。「いつか考える」は通用しない。決めなければならない。踏み込むのか、引くのか。


俺は半年以上、その決断から逃げ続けていた。


東屋が見えてきた。


あの東屋。屋根のついたベンチがあるだけの、なんてことない休憩所。ここに座ると谷の向こうの稜線が一望できる——はずだった。


だが、今日は景色が目に入らなかった。

東屋に、人がいた。


ベンチに座っている。1人。女性。明るい色の髪をひとつに束ねて、小さなリュックを足元に置いて。


彼女だった。


信じられなかった。1ヶ月も連絡を取っていない。示し合わせたわけでもない。なのに、彼女がここにいる。あの日と同じ東屋に。あの日と同じように。


彼女も俺に気づいた。


目が合った。


彼女の表情が、驚きから、戸惑いに変わり、それから——泣きそうな顔になった。あの日と同じ。東屋で初めて会ったときの、あの、泣きそうな顔。


「——なんで、いんだよ」


俺の口から出た第一声が、それだった。我ながら最悪だ。1ヶ月ぶりの再会の第一声が「なんでいるんだ」って。もっと他に言うことがあるだろう。


「……ナンデ、ッテ。ワタシガ、キキタイ」


彼女の声は少しかすれていた。泣きそうなのを堪えているのがわかった。


俺は東屋に入った。彼女の隣には座れなくて、反対側のベンチに腰を下ろした。あの日と同じ配置。少し距離を置いて。


沈黙が降りた。

鳥の声がやけに大きく聞こえた。風が木々を揺らしている。遠くで何かの動物が枝を踏む音がした。山は静かだった。俺たちだけが、静かじゃなかった。


「……ナンデ、レンラク、シテクレナカッタ?」


彼女が先に口を開いた。


「ワタシ、マイニチ、マッテタ。メッセージ、マッテタ」


毎日、待っていた。

その言葉が、胸に刺さった。


「……悪かった」

「アヤマッテホシイ、ジャナイ。リユウ、シリタイ」


謝ってほしいんじゃない。理由を知りたい。

彼女の日本語は、さらに上手くなっていた。1ヶ月会わない間にも、勉強を続けていたのだろう。この人は本当に——。


「……怖かったんだ」


気づいたら、言葉が出ていた。


「お前がいなくなるのが怖くて。でも、その怖さをどうすればいいかわからなくて。何を言っても、お前を引き止められないと思って。だから——」

「ダカラ、ナニモ、イワナカッタ?」

「……ああ」


情けない。自分で言っていて、情けなかった。怖いから何も言えなかった。それは理由じゃない。言い訳だ。


彼女はしばらく黙っていた。それから、足元のリュックに手を伸ばした。

中から、何かを取り出す。


みかんゼリーだった。


コンビニのみかんゼリー。俺が持っているのと、同じやつ。


「……お前」


「ワタシ、キョウ、ココニキタラ、アナタニ、アエルカモ、ッテ。オモッタ」


今日ここに来たら、あなたに会えるかもしれないと思った。


「ミカンゼリー、モッテキタラ、アノヒミタイニ、ナレルカモ、ッテ」


みかんゼリーを持ってきたら、あの日みたいになれるかもしれないと思った。


俺は、自分のリュックに手を入れた。そして、みかんゼリーを取り出した。


彼女の目が見開かれた。


俺の手の中のみかんゼリー。彼女の手の中のみかんゼリー。

同じ日に、同じ場所に、同じものを持って、2人とも来ていた。

示し合わせたわけじゃない。連絡も取っていない。なのに——。


彼女が笑った。泣きながら笑った。あの日と同じだ。泣いて、笑って、また泣く。忙しい人だ。


「ナンデ。ナンデ、オナジナノ」


なんで同じなの。

俺も笑っていた。目の奥が熱かった。笑っているのか泣いているのか、自分でもわからなかった。


「……なあ」

「ナニ」

「俺、中学英語もろくにできないし、お前の国の言葉はもっとわからない。お前の名前だって、未だにちゃんと発音できてるかどうか怪しい」

「ウン。ヘタ」

「うるせえ。——でも、聞いてくれ」


俺は立ち上がった。彼女の前に立った。みかんゼリーを両手で持ったまま。間抜けな絵だったと思う。プロポーズする男がみかんゼリーを握りしめているなんて、どう考えてもおかしい。

だけど、それが俺たちだった。最初からずっと、みかんゼリーで繋がってきた。だったら、最後までみかんゼリーでいい。


「帰るな」


最初に出てきたのは、その言葉だった。


「帰るな。国に帰るな。——俺と、いてくれ」


彼女は俺を見上げていた。目が潤んでいた。口が少し開いている。何かを言おうとして、言葉が出てこない。


「俺がお前のビザをどうにかできるのかはわからない。制度のことも、手続きのこともわからない。全部これから調べる。でも——」


言葉が詰まった。次の言葉が、喉の奥でつかえていた。

感情を言葉にするのが苦手だと、彼女に指摘されたことがある。嬉しいときに嬉しいと言わない。悲しいときに悲しいと言わない。大丈夫じゃないのに大丈夫と言う。

今、言わなかったら。今この瞬間、言葉にしなかったら。

もう二度と言えない。


「——お前がいないと、困るんだ」


困る。あのとき彼女に聞かれて、答えられなかった言葉。1ヶ月遅れの返事。


「飯がまずい。夜眠れない。山に来ても楽しくない。みかんゼリーを見るたびにお前のことを考える。全部、お前のせいだ」


彼女は泣いていた。声を出さずに、ただ涙を流していた。あの日——東屋で大声を上げて泣いた日とは、違う涙だった。静かで、温かい涙。


「ソレ、プロポーズ?」

「……たぶん」

「タブン、ジャ、ダメ」

「——プロポーズだ」

「モウイッカイ」

「何回言わせんだよ」

「モウイッカイ!」

「……結婚してくれ」


想像してみろよ。いい大人が、みかんゼリーを持ったまま「結婚してくれ」だぞ?映画じゃ採用もされないような、締まらない絵面にしか見えない。

しかも、この期に及んで「たぶん」だなんて、今思えば、救いようのないヘタレだよな。でも、これでも必死だったんだよ。


そのセリフを聞いて、彼女は立ち上がった。俺の持っているみかんゼリーを取り上げて、自分のみかんゼリーと一緒に、ベンチの上に並べた。2つのみかんゼリーが、東屋の古びたベンチの上で並んでいる。

そして俺に向き直った。


「イエス」


たった一言。

だけど、それで十分だった。


彼女が俺に抱きついた。いや、突っ込んできたと言ったほうが正しい。ものすごい勢いで。受け止めきれなくて、半歩よろめいた。

小さな体が、震えていた。


「ズット、コワカッタ。アナタガ、サヨナラ、イウトオモッタ」


ずっと怖かった。あなたがさよならと言うと思った。


「……言うわけないだろ。みかんゼリー持って山に来るような男が、さよならなんて言うか」

「ナニソレ。イミワカンナイ」

「俺もわかんない」


2人で笑った。泣きながら、笑った。東屋の中で、みかんゼリーを2つ並べたまま。


山は静かだった。風が木々を揺らしている。鳥が鳴いている。遠くの稜線がぼんやり霞んでいる。

あの日と同じ景色。だけど、全部違って見えた。


出会いの、みきょんじゅり[最終話]
出会いの、みきょんじゅり 第 8 話 「東屋のその先」 ——と、まあ、そういう話だ。長くなったな。付き合ってくれてありがとう。え?その後どうなったかって?そうだな。プロポーズの後のことを、少しだけ話そうか。あの日、東屋で「イエス」をもらった...

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