「みかんゼリーをもう一度」
連絡が途絶えてから、1ヶ月が経とうとしていた。
仕事には行っていた。飯も食っていた。息もしていた。生きてはいた。だが、それだけだった。心のどこかに穴が空いていて、そこから大事なものが静かに漏れ出していくような感覚が、ずっと続いていた。
彼女のことを考えない日はなかった。スマートフォンを開くたびに、メッセージを打ちかけては消した。何度も。何十回も。
「元気か?」——違う。軽すぎる。
「会いたい」——違う。重すぎる。
「話がしたい」——何を話す?話せなかったから、こうなったんだろう。
結局、何も送れなかった。
ビザの期限まで、あと1ヶ月半。
ある日の朝、目が覚めて、天井を見つめていた。休日だった。何の予定もない。誰とも会わない。どこにも行かない。ただ、この部屋で1日が過ぎるのを待つだけの休日。
こういう休日を、俺は以前も過ごしていた。彼女に出会う前。仕事に疲れ果てて、誰にも会いたくなくて、布団の中で丸くなっていた頃。
あの頃に戻ったのか。
そう思ったとき、ふと、視界の端に登山靴が映った。
玄関の靴箱の横に、出しっぱなしになっていた。あの日——彼女と出会った日に履いて、そのまま仕舞い忘れていたのか。薄く埃を被っている。
また、埃を被らせてしまった。
俺は起き上がった。
理由はうまく説明できない。考えて決めたわけじゃない。ただ、あの登山靴を見た瞬間、体が動いた。顔を洗って、着替えて、リュックを引っ張り出した。
水筒にほうじ茶を入れた。
そして——コンビニで、みかんゼリーを買った。
なぜみかんゼリーを買ったのか。あの日の再現がしたかったのか。彼女との思い出に浸りたかったのか。自分でもわからない。ただ、手が伸びた。あのオレンジ色に、また引き寄せられた。
車を走らせた。1時間。馴染みの山。あの山。
駐車場に車を停めて、登山靴の紐を結ぶ。この動作をするのは、2度目だ。1度目は、仕事に疲れ果てて逃げるように来た日。今日は——今日は何だろう。何をしに来たんだろう。
わからないまま、歩き始めた。
季節が変わっていた。あの日は秋だった。今は初夏。木々は深い緑に覆われ、足元には夏草が茂り始めている。空気が違う。匂いが違う。光の色が違う。
だけど、道は同じだった。あの日と同じ道。同じ勾配。同じカーブ。体が覚えていた。
歩きながら、考えていた。
俺は何を恐れているんだろう。
彼女がいなくなること?それは怖い。だけど、いなくなることが怖いなら、なぜ連絡を取らない。自分から距離を置いて、自分で自分を苦しめて、何をやっているんだ。
違う。本当に怖いのは、そこじゃない。
——踏み込むことが、怖いんだ。
名前のない関係は、心地よかった。責任がないから。失敗しないから。名前をつけなければ、終わることもない。ずっと曖昧なまま、ふわふわと浮いていられる。
だが、彼女のビザには期限がある。時間は曖昧さを許してくれない。「いつか考える」は通用しない。決めなければならない。踏み込むのか、引くのか。
俺は半年以上、その決断から逃げ続けていた。
東屋が見えてきた。
あの東屋。屋根のついたベンチがあるだけの、なんてことない休憩所。ここに座ると谷の向こうの稜線が一望できる——はずだった。
だが、今日は景色が目に入らなかった。
東屋に、人がいた。
ベンチに座っている。1人。女性。明るい色の髪をひとつに束ねて、小さなリュックを足元に置いて。
彼女だった。
信じられなかった。1ヶ月も連絡を取っていない。示し合わせたわけでもない。なのに、彼女がここにいる。あの日と同じ東屋に。あの日と同じように。
彼女も俺に気づいた。
目が合った。
彼女の表情が、驚きから、戸惑いに変わり、それから——泣きそうな顔になった。あの日と同じ。東屋で初めて会ったときの、あの、泣きそうな顔。
「——なんで、いんだよ」
俺の口から出た第一声が、それだった。我ながら最悪だ。1ヶ月ぶりの再会の第一声が「なんでいるんだ」って。もっと他に言うことがあるだろう。
「……ナンデ、ッテ。ワタシガ、キキタイ」
彼女の声は少しかすれていた。泣きそうなのを堪えているのがわかった。
俺は東屋に入った。彼女の隣には座れなくて、反対側のベンチに腰を下ろした。あの日と同じ配置。少し距離を置いて。
沈黙が降りた。
鳥の声がやけに大きく聞こえた。風が木々を揺らしている。遠くで何かの動物が枝を踏む音がした。山は静かだった。俺たちだけが、静かじゃなかった。
「……ナンデ、レンラク、シテクレナカッタ?」
彼女が先に口を開いた。
「ワタシ、マイニチ、マッテタ。メッセージ、マッテタ」
毎日、待っていた。
その言葉が、胸に刺さった。
「……悪かった」
「アヤマッテホシイ、ジャナイ。リユウ、シリタイ」
謝ってほしいんじゃない。理由を知りたい。
彼女の日本語は、さらに上手くなっていた。1ヶ月会わない間にも、勉強を続けていたのだろう。この人は本当に——。
「……怖かったんだ」
気づいたら、言葉が出ていた。
「お前がいなくなるのが怖くて。でも、その怖さをどうすればいいかわからなくて。何を言っても、お前を引き止められないと思って。だから——」
「ダカラ、ナニモ、イワナカッタ?」
「……ああ」
情けない。自分で言っていて、情けなかった。怖いから何も言えなかった。それは理由じゃない。言い訳だ。
彼女はしばらく黙っていた。それから、足元のリュックに手を伸ばした。
中から、何かを取り出す。
みかんゼリーだった。
コンビニのみかんゼリー。俺が持っているのと、同じやつ。
「……お前」
「ワタシ、キョウ、ココニキタラ、アナタニ、アエルカモ、ッテ。オモッタ」
今日ここに来たら、あなたに会えるかもしれないと思った。
「ミカンゼリー、モッテキタラ、アノヒミタイニ、ナレルカモ、ッテ」
みかんゼリーを持ってきたら、あの日みたいになれるかもしれないと思った。
俺は、自分のリュックに手を入れた。そして、みかんゼリーを取り出した。
彼女の目が見開かれた。
俺の手の中のみかんゼリー。彼女の手の中のみかんゼリー。
同じ日に、同じ場所に、同じものを持って、2人とも来ていた。
示し合わせたわけじゃない。連絡も取っていない。なのに——。
彼女が笑った。泣きながら笑った。あの日と同じだ。泣いて、笑って、また泣く。忙しい人だ。
「ナンデ。ナンデ、オナジナノ」
なんで同じなの。
俺も笑っていた。目の奥が熱かった。笑っているのか泣いているのか、自分でもわからなかった。
「……なあ」
「ナニ」
「俺、中学英語もろくにできないし、お前の国の言葉はもっとわからない。お前の名前だって、未だにちゃんと発音できてるかどうか怪しい」
「ウン。ヘタ」
「うるせえ。——でも、聞いてくれ」
俺は立ち上がった。彼女の前に立った。みかんゼリーを両手で持ったまま。間抜けな絵だったと思う。プロポーズする男がみかんゼリーを握りしめているなんて、どう考えてもおかしい。
だけど、それが俺たちだった。最初からずっと、みかんゼリーで繋がってきた。だったら、最後までみかんゼリーでいい。
「帰るな」
最初に出てきたのは、その言葉だった。
「帰るな。国に帰るな。——俺と、いてくれ」
彼女は俺を見上げていた。目が潤んでいた。口が少し開いている。何かを言おうとして、言葉が出てこない。
「俺がお前のビザをどうにかできるのかはわからない。制度のことも、手続きのこともわからない。全部これから調べる。でも——」
言葉が詰まった。次の言葉が、喉の奥でつかえていた。
感情を言葉にするのが苦手だと、彼女に指摘されたことがある。嬉しいときに嬉しいと言わない。悲しいときに悲しいと言わない。大丈夫じゃないのに大丈夫と言う。
今、言わなかったら。今この瞬間、言葉にしなかったら。
もう二度と言えない。
「——お前がいないと、困るんだ」
困る。あのとき彼女に聞かれて、答えられなかった言葉。1ヶ月遅れの返事。
「飯がまずい。夜眠れない。山に来ても楽しくない。みかんゼリーを見るたびにお前のことを考える。全部、お前のせいだ」
彼女は泣いていた。声を出さずに、ただ涙を流していた。あの日——東屋で大声を上げて泣いた日とは、違う涙だった。静かで、温かい涙。
「ソレ、プロポーズ?」
「……たぶん」
「タブン、ジャ、ダメ」
「——プロポーズだ」
「モウイッカイ」
「何回言わせんだよ」
「モウイッカイ!」
「……結婚してくれ」
想像してみろよ。いい大人が、みかんゼリーを持ったまま「結婚してくれ」だぞ?映画じゃ採用もされないような、締まらない絵面にしか見えない。
しかも、この期に及んで「たぶん」だなんて、今思えば、救いようのないヘタレだよな。でも、これでも必死だったんだよ。
そのセリフを聞いて、彼女は立ち上がった。俺の持っているみかんゼリーを取り上げて、自分のみかんゼリーと一緒に、ベンチの上に並べた。2つのみかんゼリーが、東屋の古びたベンチの上で並んでいる。
そして俺に向き直った。
「イエス」
たった一言。
だけど、それで十分だった。
彼女が俺に抱きついた。いや、突っ込んできたと言ったほうが正しい。ものすごい勢いで。受け止めきれなくて、半歩よろめいた。
小さな体が、震えていた。
「ズット、コワカッタ。アナタガ、サヨナラ、イウトオモッタ」
ずっと怖かった。あなたがさよならと言うと思った。
「……言うわけないだろ。みかんゼリー持って山に来るような男が、さよならなんて言うか」
「ナニソレ。イミワカンナイ」
「俺もわかんない」
2人で笑った。泣きながら、笑った。東屋の中で、みかんゼリーを2つ並べたまま。
山は静かだった。風が木々を揺らしている。鳥が鳴いている。遠くの稜線がぼんやり霞んでいる。
あの日と同じ景色。だけど、全部違って見えた。



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