「時計の針」
その話を聞いたのは、季節がひとつ変わった頃だった。
出会ったのが秋で、語学交換を始めたのが秋の終わり。冬を一緒に過ごして、春が来た。桜が咲いて、散って、新緑が眩しくなった頃。俺たちは相変わらず、名前のない関係を続けていた。
付き合っている、と言えばそうかもしれない。でも告白はしていない。手も繋いでいない。ただ、週に2回か3回会って、飯を食って、笑って、たまに言葉が通じなくてもどかしい思いをして——それを半年以上、繰り返していた。
俺はその関係に甘えていたんだと思う。名前をつけなければ、失う怖さもない。このままの距離感が心地いい。変わらなくていい。ずっとこのままでいい。
だが、「ずっと」なんてものは、最初から存在しなかった。
その日、いつものコーヒーショップで向かい合っていた。彼女はカフェラテを両手で包むように持って、しばらく黙っていた。
彼女が黙っているのは珍しいことだった。普段は俺が黙っていても1人で喋っている人間だ。日本語と英語を混ぜた独特の文体で、今日あったこと、覚えた日本語、食べたいもの、行きたい場所——話題が途切れることがない。
その彼女が、黙っている。
「……どうした?」
聞くと、彼女はカフェラテの表面を見つめたまま、小さく言った。
「ネェ。ワタシ、ハナサナキャイケナイコト、アル」
話さなきゃいけないことがある。
その一言で、空気が変わった。
「ワタシノシゴトノビザ、アト3カゲツデ、キレル」
仕事のビザが、あと3ヶ月で切れる。
「……3ヶ月?」
「イマノカイシャ、ケイヤク、オワル。ケイヤク、オワッタラ、ビザモ、オワル」
契約が終わったら、ビザも終わる。つまり——。
「クニニ、カエラナキャ、イケナイ」
国に、帰らなきゃいけない。
彼女の声は淡々としていた。感情を押し殺しているのがわかった。いつもなら感情がそのまま外に出る人なのに、このときだけは、必死に平静を保っていた。
俺は何も言えなかった。
さっきまで普通に飲んでいたコーヒーが、急に泥みたいな味に感じた。
3ヶ月。あと3ヶ月。カレンダーを数えるまでもない。今が6月だから、9月。夏が終わる頃。
「ほかの仕事は?日本で、あたらしい、じょぶ。ほかの、かんぱにー」
「サガシテル。デモ、ムズカシイ。ビザ、サポート、シテクレルカイシャ、スクナイ」
探している。だけど難しい。ビザをサポートしてくれる会社が少ない。
それは俺にもわかる話だった。外国人の就労ビザは、企業側がスポンサーにならなければ取れない。日本語が流暢ではない彼女を、わざわざビザを出してまで雇ってくれる企業が、果たしてどれだけあるのか。
「……そうか」
それしか言えなかった。
俺は頭の中で、必死に何かを探していた。解決策。提案。彼女が日本に残れる方法。だけど、出てこない。俺にはビザの知識もないし、彼女の業界のこともわからないし、力になれることが何もない。
何もない——その無力さが、腹の底にずしりと落ちてきた。
「ゴメンネ。キュウニ、コンナハナシ」
彼女が謝った。急にこんな話をしてごめん、と。
「謝んなよ。お前が悪いんじゃないだろ」
「デモ、アナタモ、コマルデショ」
「困る?」
「ワタシガ、イナクナッタラ。コマル?」
いなくなったら、困るか。
彼女はまっすぐ俺を見ていた。いつもの困り顔じゃない。もっと深い、覚悟を決めたような目。
俺は——答えられなかった。
「……考えさせてくれ」
最低な返事だったと思う。今でも思う。「困る」と言えばよかった。「行くな」と言えばよかった。だけど、あの瞬間の俺には、その言葉が出てこなかった。
感情を言葉にするのが苦手なのは、彼女にも指摘されていたことだ。俺は少しずつ変わろうとしていた。でも「少しずつ」じゃ間に合わないときがある。
3ヶ月。あと3ヶ月しかない。
その日、コーヒーショップを出た後、俺たちは並んで歩いた。いつもなら彼女のほうから腕を組んでくるのに、その日は少し距離があった。半歩分。たった半歩。だけどその半歩が、やけに遠かった。
駅で別れるとき、彼女は笑った。いつもの笑顔だった。いつもの「ジャアネ」だった。
だけど俺にはわかった。あの笑顔の裏に何があるか。彼女は重い話を軽く包む人だから。そういう人なんだ。
帰りの電車で、窓の外をぼんやり眺めていた。景色が流れていく。早い。止められない。時間も、たぶん同じだ。流れていく。止められない。3ヶ月なんて、あっという間だ。
家に帰って、1人で缶ビールを開けた。飲みながら、スマートフォンを見た。彼女からのメッセージはなかった。いつもなら帰りの電車の中でもう送ってくるのに。
俺からも、送れなかった。何を送ればいいのかわからなかった。
翌日も、メッセージはなかった。
翌々日も。
1週間が経った。
俺たちは突然、連絡を取らなくなっていた。
喧嘩をしたわけじゃない。嫌いになったわけでもない。ただ、あの日以来、何をどう伝えればいいのかわからなくなっていた。お互いに。
普通の話をすればいいのか?天気の話?今日食べたものの話?そうやって、残り3ヶ月を何事もなかったかのように過ごすのか?
それとも、ちゃんと向き合うのか。向き合って、どうする。俺に何ができる。
何もできない。
その無力さが、連絡を取る手を止めていた。
2週間が経った頃、俺は限界だった。
仕事中もぼんやりして、上司に怒られた。飯を食っても味がしない。夜、ベッドに入っても眠れない。天井を見つめながら、彼女のことを考えていた。
あの笑顔を。あのカタコトの日本語を。伸びたラーメンを旨そうに食べる横顔を。「ツカレナカマ」と送ってきたメッセージを。
そして——東屋で泣きながらみかんゼリーを食べていた、あの姿を。
あの涙の意味は、孤独の涙だったんじゃないか、と思っていた。異国の地で、繋がろうとした糸が切れた——あの涙。
今、俺がやっていることは、何だ?
彼女が必死に繋げた糸を、俺のほうから切ろうとしているんじゃないのか。
……わかっていた。わかっていて、動けなかった。でも、あのときは……本当は、どうしたらいいかわからなかったんだ。
3週間が経った。
彼女からもメッセージは来ない。以前なら1日に何通も来ていたのに。画面を開くたびに、通知のない画面が目に刺さった。
ビザの期限まで、あと2ヶ月と少し。
時計の針は止まらない。
俺が何もしなくても、何も決められなくても、時間だけは流れていく。
そしてその針が、ある地点まで進んだとき——俺はようやく動くことになる。
だが、その話は次だ。



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