「彼女の事情」
彼女のことを、少し話しておこうと思う。
もちろん、出会った当初は何も知らなかった。名前の読み方すらわからなかったんだから。だけど週に一度、語学交換と称して会うようになって、少しずつ——本当に少しずつ——彼女の輪郭が見えてきた。
彼女はヨーロッパの、どこかの国の出身だ。
どこかの国、と言うしかない。彼女自身が、あまり自分の国のことを話したがらなかったんだ。
嫌いなわけではないらしい。故郷の風景の話をするときは、懐かしそうな目をしていた。だけど、家族の話になると口が重くなった。仕事の話も、聞けば答えてくれるが、自分からは話さない。
わかってきたのは、彼女が日本に来たのは単なる憧れだけじゃなかった、ということだ。
もちろん、日本文化が好きだったのは本当だ。それは会うたびに嫌というほど伝わってきた。彼女の日本に対する知識量は、はっきり言って異常だった。
ある日、語学交換の最中に「好きな日本語は何か」と聞いてみたことがある。
「ウーン……『イタダキマス』」
「いただきます?」
「イエス。ゴハンノマエ、カンシャスル。スゴイ。ワタシノクニ、コレ、ナイ」
食事の前に感謝する。自分の国にはそういう言葉がない。だからすごい、と。
また別の日には、こんなことを言った。
「ニホンノヒト、ナラブ、シズカ、キレイ。デンシャ、マツ。ワタシ、スキ、ソレ」
電車を静かに待つ。並ぶ。それが好きだと。
俺からすれば当たり前のことだ。だけど彼女にとっては当たり前じゃなかった。秩序や礼儀、相手への配慮が空気のように存在する社会——それが彼女には新鮮で、心地よかったらしい。
日本に来て2年。最初は仕事の契約で来た。ヨーロッパの企業の日本支社で働いていたそうだ。契約は数年の予定で、いずれは母国に戻ることになっていた。
だが、彼女は戻りたがらなかった。
その理由を、彼女はなかなか話さなかった。俺も無理には聞かなかった。カタコトの英語と日本語では、深い話をするのに限界がある。重い話なら、なおさらだ。
だけど、何回目かに会ったとき、ぽつりと言ったことがある。
「ワタシノクニデハ、ワタシ、イツモ、チガウヒト」
私の国では、私はいつも、違う人。
それだけだった。それ以上は言わなかったし、俺も聞かなかった。
だけど、その一言はずっと引っかかっていた。「違う人」というのが何を意味するのか。周囲と馴染めなかったのか。価値観が合わなかったのか。もっと深い理由があるのか。
後になって、もう少しだけわかった。
彼女は、自分の国での暮らしに息苦しさを感じていたんだ。周囲の期待、家族の価値観、「こうあるべきだ」という空気。具体的に何があったかは聞いていないし、聞いたとしてもここでは言えない。ただ、彼女にとって日本に来ることは、単なるキャリアの選択じゃなかった。新しい場所で、新しい自分を始めるための——ほとんど賭けに近い決断だったのだ。
そう考えると、いろいろなことの辻褄が合った。
彼女が日本文化を必死に学んでいたこと。カタコトでも日本語を使おうとしていたこと。山のハイキングコースにまで1人で来ていたこと。全部、この国に根を下ろそうとする彼女なりの努力だったんだ。
そして——あの日、東屋で俺に声をかけたこと。
あれだって、相当な勇気が要ったはずだ。見知らぬ日本人の男に、通じるかどうかもわからない日本語で話しかける。考えてみてくれよ。俺だったら絶対にできない。海外で1人で、言葉もろくに通じない場所で、知らない現地人に声をかける。想像しただけで胃が痛くなる。
それを彼女はやった。みかんゼリーを口実にして。
——ここまで話すと、あのとき彼女がなぜ泣いたのか、少しだけ見えてくるんじゃないかと思う。
あれは、みかんゼリーが食べたくて泣いたんじゃない。
勇気を出して話しかけたのに、通じなかった。拒絶された——少なくとも彼女にはそう見えた。異国の地で、やっとの思いで繋がろうとした糸が、切れた。
彼女にとって、あの涙は孤独の涙だったんだと思う。
もちろん、これは俺の推測だ。本人に確認したわけじゃない。聞いたとしても、彼女は笑って「ミキョンジュリ、タベタカッタダケ」と言うだろう。そういう人なんだ、彼女は。重い話を軽く包んで、笑顔で差し出す。
だけど俺は知っている。あの涙が本物だったことを。
語学交換を始めて1ヶ月ほど経った頃、面白いことが起きた。
彼女の日本語が、急に目に見えて上達し始めたんだ。
もともと勉強熱心ではあったが、俺と会うようになってからのペースが明らかに違った。毎週会うたびに新しい単語を使ってくる。発音もだいぶ聞き取りやすくなった。「みかんゼリー」はもう完璧に言える。
「ネェ、キョウノ、テンキ、イイネ」
「おう、いい天気だな」
「ワタシ、サイキン、ニホンゴ、ジョウズニナッタ?」
「なった、なった。すげぇよ」
「ホント?ウレシイ!」
対する俺の英語はというと——まあ、壊滅的だった。
彼女が英語を教えてくれるたびに挑戦するのだが、どうにも頭に入ってこない。中学の授業で習ったはずの文法すら怪しい。彼女は辛抱強く教えてくれたが、さすがに呆れることもあったらしい。
「ユー、イングリッシュ、ゼンゼン、ダメネ」
「……うるせえ」
「アハハ!ウルサイ、モウ、シテル」
「うるさい」はすぐ覚えるのか——と思ったが、口には出さなかった。
振り返ってみれば、この頃が一番楽しかったのかもしれない。
お互いのことを少しずつ知っていく。1回会うごとに、1枚ずつベールが剥がれていく。だけどまだ核心には触れていない。彼女が本当に抱えているもの、俺が本当に疲れている理由、そういう深いところには、まだお互い踏み込めていなかった。
それでよかった。焦る必要はなかった。
言葉の壁があるおかげで、距離の詰め方がゆっくりになる。普通なら3日で話せることに、3ヶ月かかる。それは不便だが、悪いことばかりじゃない。ゆっくり進むから、一言が通じるたびに、小さな喜びがある。
俺たちは、世界一遅い速度で近づいていた。
近づいていたのは確かだ。



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