「中学英語の恋」
連絡が来たのは、翌日の夜だった。
珍しく早い時間に帰宅できた俺は、シャワーを浴びて、缶ビールを開けたところだった。スマートフォンの通知音。見ると、メッセージが届いている。
——ああ、昨日の。
みかんゼリーの彼女だ。
メッセージはこうだった。
「Hello! I am yesterday mikan jelly girl. Thank you very much! I give you orei. When you free?」
英語、なのか。英語らしきもの、と言ったほうが正確かもしれない。文法はめちゃくちゃだ。だが、言いたいことはわかる。昨日のみかんゼリーの女ですと。お礼がしたいと。いつ暇ですかと。
俺は缶ビールを一口飲みながら、返事を考えた。
正直、迷った。
昨日の今日で、冷静になっていたんだ。いきなり泣き出す外国人の女性と連絡先を交換して、これからお礼と称して会うのか。冷静に考えれば、怪しい話じゃないか。何かの勧誘だとか、ぼったくりバーに連れて行かれるとか、そういう可能性だってある。
だが——泣きながらみかんゼリーを食べていた、あの姿を思い出すと、そういう打算的な人間には見えなかった。あれは演技じゃない。少なくとも俺はそう感じた。
それに、言い訳がましいことを言えば、俺はあのとき疲れていた。人間関係に擦り切れて、誰とも関わりたくないと思っていた。なのに、この突拍子もないメッセージを見て、ほんの少しだけ、口元が緩んでいることに気づいたんだ。
mikan jelly girl——みかんゼリー女。自分でそう名乗るか、普通。
俺は返事を打った。中学の英語の教科書を思い出しながら。
「OK. I am free next Saturday. Where?」
送信してから、自分の英語力のなさに頭を抱えた。素っ気なさすぎる。もう少し何か書くべきだったんじゃないか。でも、これ以上の英文が出てこない。
返事はすぐに来た。
「OK! Saturday! I know good coffee shop. I send map. See you!」
コーヒーショップか。まあ、それなら安全だろう。公共の場だし、変な目に遭うことはあるまい。
——こうして、俺は「みかんゼリーのお礼」を受けることになった。
土曜日。
指定されたコーヒーショップは、俺の自宅から電車で20分ほどの、小さな商店街の中にあった。個人経営の落ち着いた店で、外から見える範囲では怪しいところはない。少し早く着いてしまい、店の前で待っていると、5分ほどして彼女がやってきた。
山で見たときとは、雰囲気が違った。
髪を下ろしていた。明るい色の髪が肩の少し下まであって、風に揺れている。服装はシンプルだが、ちゃんと「出かける用」の格好をしている。薄い化粧。小さなピアス。
——ああ、この人、こういう顔だったのか。
山では登山寄りの格好だったし、途中から泣いていたし、正直まともに顔を見ていなかった。改めて見ると、整った顔立ちの、綺麗な人だった。
「ハロー!」
彼女は俺を見つけると、大きく手を振った。屈託がない。昨日泣き叫んでいたのと同一人物とは思えない。
「……はろー」
店に入り、席に着いた。俺はブレンドコーヒー、彼女はカフェラテを頼んだ。
そして——沈黙。
考えてみれば当然だ。共通言語がない。俺は日本語しかまともに話せない。彼女の日本語は「ミキョンジュリ」レベルだ。お互い少しだけ英語がわかるが、少しだけだ。会話が成立するのか、これ。
彼女が先に口を開いた。
「ディス、フォー、ユー」
テーブルの上に、小さな紙袋が置かれた。
「……ふぉー、みー?」
「イエス。オレイ。ミキョンジュリ、オレイ」
中を見ると、みかんのマドレーヌが2つ入っていた。みかん味の焼き菓子。パッケージには地元の洋菓子店の名前が書いてある。
みかんゼリーのお礼が、みかんマドレーヌ。
「……ぷふっ」
思わず笑ってしまった。彼女も釣られたように笑った。
「みかん、ゆーらいく?」
「ノーノー。ミキョン、イズ、ノット、マイフェイバリット。バット、ディス、フォーユー、ビコーズ、ミキョンジュリ、メモリー」
みかんが好きなわけではない。みかんゼリーの思い出だから、みかんにしたのだと。
なるほどね。律儀というか、変わっているというか。
「さんきゅー。あい、いーと、あとで」
「アトデ?」
「ん-……れいたー?」
「オー、レイター。オーケー」
——こんな調子だった。
何を話すにも時間がかかる。単語を探して、ジェスチャーを交えて、スマートフォンの翻訳アプリを見せ合って。ひとつのことを伝えるのに5分かかることもあった。
彼女が日本に来た理由。仕事で来たこと。もう2年くらい住んでいること。日本の文化が好きで、特に和食と温泉が好きだということ。
これだけの情報を引き出すのに、コーヒー2杯分の時間がかかった。
逆に、俺のことも聞かれた。仕事は何をしているのか。趣味は何か。なぜあの山にいたのか。
「あい、らいく、はいきんぐ。ばっと、ろんぐたいむ、のーはいきんぐ。びこーず、びじー」
「オー、ビジー。ワーク?」
「いえす。べりー、びじー。べりー、たいあど」
「タイアド……ツカレタ?」
「いえす。つかれた」
「ワタシモ、トキドキ、ツカレル」
……通じた。
たった一言、「つかれた」が通じただけだ。だけどその瞬間、何かが繋がった気がした。
「……あそこ、あずまや。あずまや、いず、まい、すぺしゃる、ぷれいす」
「アズヤマ?」
「のーのー、あずまや。はいきんぐ、すもーる、はうす。たいあど、ごーつー、あずまや。りふれっしゅ。……あんど、みかんゼリー」
「オー、リフレッシュ!……アン、ミキョンジュリ。アハハ!」
彼女は大きく頷いた。
「ワタシモ、アソコ、スキ。シズカデ、キレイ。……パワー、モラエル」
「パワー、か。いい言葉だな」
言葉が通じないもどかしさは、ずっとあった。言いたいことの10分の1も伝えられない。彼女のことも、10分の1しかわからない。でも、その「10分の1」が妙に濃いのだ。
普段の俺なら、初対面の相手にこんな話はしない。仕事がつらいとか、疲れているとか。でも、使える単語が限られているから、飾る余裕がない。見栄を張る語彙がないのだ。結果として、むき出しの言葉だけが残る。
彼女も同じだったのかもしれない。カタコトの日本語と、カタコトの英語。その隙間から漏れてくる感情は、流暢な会話よりもよっぽど正直だった。
気づけば、2時間が経っていた。
大したことは話していない。お互いの仕事のこと、好きな食べ物、季節の話。日本語と英語とジェスチャーと翻訳アプリを総動員して、普通の人なら15分で終わるような会話を、2時間かけてやっただけだ。
だけど、不思議と退屈じゃなかった。
店を出るとき、彼女が言った。
「ネクスト、アイ、ティーチ、ユー、イングリッシュ。ユー、ティーチ、ミー、ジャパニーズ。オーケー?」
次は英語を教えてあげる。代わりに日本語を教えてほしい。
教え合う。そういう名目なら、また会う理由になる。みかんゼリーのお礼は今日で済んだ。次に会うには、新しい口実が要る。彼女はそれを、さらっと用意してみせたのだ。
この人、意外とちゃっかりしているな——そう思ったのを覚えている。
「……おーけー」
俺はそう答えた。
ただ……彼女の英語も、そんなに……いや、そんなこと言ったら失礼だな。。
帰りの電車の中で、もらったみかんマドレーヌをひとつ食べた。甘くて、少しだけみかんの酸味があって、素朴な味がした。
スマートフォンを開くと、もうメッセージが来ていた。
「Today very fun! Thank you! Next time I teach you "How are you" haha」
how are youくらい知ってるよ——と思いながら、俺は少しだけ笑って、返事を打った。
「Thank you too. Mikan madeleine, very good. Next time, I teach you "mikan zerii" no "mikan jelly".」
送信してから気づいた。これ、英語として正しいのか?いや、たぶん正しくない。だけどまあ、通じるだろう。俺たちの会話は最初から、正しさなんかどこにもないんだから。
通じなくても、伝わることがある。たった10分の1でも、その10分の1が本物なら、それで十分だ。
——なんて、当時の俺がそんなことを考えていたかどうかは怪しい。後から振り返って美化している部分も、たぶんある。でも、あの帰り道が妙に温かかったことだけは、はっきり覚えているんだ。


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