出会いの、みきょんじゅり[第2話]

出会いの、みきょんじゅり
第 2 話

「みかんゼリー」

どのくらい時間が経っただろう。5分か、10分か。久しぶりに、時計を気にしない時間を過ごしていた。


不意に、足音が聞こえた。

砂利を踏む軽い音。1人分。規則的だが、少しだけ不慣れな歩き方。ヒールではないが、山歩きに慣れた足取りでもない。

目を開けると、1人の女性が東屋に入ってくるところだった。


外国人だった。

肌が白い。髪は明るい色で、無造作にひとつに束ねている。身長は俺より少し低いくらい。服装はアウトドア寄りだったが、どこか街着の延長みたいな雰囲気もあった。リュックは小さめで、観光客のようにも、そうでないようにも見える。


目が合った。

俺は軽く会釈した。山での挨拶は基本だ。相手も小さく頭を下げた。その仕草が、なんというか、ぎこちなくて丁寧だった。日本式のお辞儀を頑張って真似している、という感じ。


彼女はベンチの反対側に座った。俺とは少し距離を置いて。リュックを下ろし、ペットボトルの水を取り出して飲んでいる。

静かだった。いい距離感だと思った。

——そこまでは、よかったんだ。


「アノー、スマミセン」


声をかけられた。彼女のほうからだ。すみません……と言いたいのだろうか。


「はい?」


返事をすると、彼女はこちらを向いて、少し困ったような顔をしていた。笑顔なんだが、眉が下がっている。何かを伝えたいのに伝わるか不安、という顔だ。


「ミキョンジュリ、アルリマカ?」


……ん?

日本語、なのか?日本語っぽい雰囲気ではあった。だが、単語として頭に入ってこない。


「すみません、もう一度お願いします。えーと……わんもあー、ぷりーず」


我ながらひどい英語だったが、通じたらしい。彼女は頷いて、もう一度言った。


「ミキョンジュリ、アリマラカ?」


ダメだ。さっぱりわからない。

何かの単語なのか、文章なのか、それすら判別できない。ミキョンジュリ。何語だ?彼女の母国語か?いや、さっき「アノー、スマミセン」と言っていたから、日本語で話そうとしているはずだ。だが、俺の知っている日本語の中に「ミキョンジュリ」に該当するものが見つからない。


「そーりー。あい、どんと、のー」


申し訳ないが、ギブアップだ。


「オー、ソーリー、サンキュー」


彼女は少し残念そうに微笑んで、それ以上は何も言わなかった。


会話終了。

まあ、こういうことはある。外国の人と言葉が通じないのは、誰が悪いわけでもない。俺は気持ちを切り替えて、ベンチに座り直した。


さて、そろそろ小腹が空いてきた。

リュックを開けて、今朝コンビニで買ったみかんゼリーを取り出す。このみかんゼリーを見て山を思い出し、今日ここに来たわけだから、ここで食べるのがいちばん正しい。

パッケージを開けようとした、そのとき。


「ヘイ、ユー!ミキョンジュリ!アールジョノイデシカ!!」


ものすごい声が飛んできた。

驚いて顔を上げると、彼女が立ち上がっていた。さっきまでの困り顔はどこへやら、目を見開いて、俺を——正確には俺の手の中のみかんゼリーを——指差している。


「はぁ?」


意味がわからない。何がどうなった。なぜ怒っている。


「ワタシ!ミキョンジュリ、キイタ!アタタ、アイドンノー、イタ!ウソツキ!!」


言葉が早い。感情が乗って、さらに聞き取りにくくなっている。だが、いくつかの単語は拾えた。「ワタシ」「キイタ」「アイドンノー」——そして最後に、はっきりと聞こえた一語。


ウソツキ。


「……俺が、うそつき?」

声のトーンが落ちた。自分でわかった。

俺は短気なほうじゃない。むしろ我慢強いほうだと思っている。仕事で理不尽なことを言われても、大抵は飲み込む。だけど、身に覚えのないことで「うそつき」と言われるのは、話が別だ。


「どういうことだよ。俺が何の嘘をついたんだ」


日本語で言った。通じないのはわかっている。だけど、こっちも感情が出た。

彼女は半分泣きそうな顔になっていた。怒りと悲しみが混ざったような、こどもが駄々をこねるような表情。そして、震える指で俺の手の中にあるものを差した。


「ミキョンジュリ」


みきょんじゅり。

みきょん、じゅり。

み、かん、ゼリー——。


「……ああ」


頭の中で、パズルのピースがカチッとはまった。

ミキョンジュリじゃない。みかんゼリーだ。彼女はさっきから、ずっと「みかんゼリー」と言っていたんだ。


「ミキョンジュリ、アルリマカ」は「みかんゼリー、ありますか」。「アールジョノイデシカ」は「あるじゃないですか」。つまり——持っているのに「知らない」と言った俺は、彼女にとって「ウソツキ」だったわけだ。


なんだそりゃ。


思わず、笑いそうになった。いや、笑っちゃいけない。彼女は本気で怒っている。泣きそうになっている。でも、その理由が「みかんゼリー」って。


「なに、みかんゼリーが欲しいわけ?ゆー、うぉんと、でぃす?」


みかんゼリーを軽く持ち上げて見せた。


「イェス!ィィィイエス!」


すごい勢いで頷かれた。さっきまで泣きそうだった目が、一瞬で輝いた。この切り替えの速さは何なんだ。

だが——俺はそのままみかんゼリーを引っ込めた。


「のー」


正直に言おう。意地悪がしたかったわけじゃない。あげてもよかった。だけど、さっきの態度が引っかかっていた。初対面でいきなり怒鳴られて、うそつき呼ばわりされて、はいどうぞ——それは違うだろう。


すると。


彼女が、泣き出した。

声を上げて、その場にしゃがみ込んで、両手で顔を覆って、泣いた。


「ミキョンジュリー。アイ、ヲントゥー、ミキョンジュリー」


嗚咽混じりの声が、静かな山の中に響いた。


……参った。

こういうのに弱いんだ、俺は。泣かれると、途端にどうしていいかわからなくなる。しかも外国人の女性だ。言葉は通じない。ここは山の中の東屋で、周りには誰もいない。泣いている女性と、みかんゼリーを握りしめた男。絵面が最悪すぎる。


「……わかった、わかったよ。はい」


みかんゼリーを差し出した。彼女は顔を上げ、涙で濡れた目でゼリーを見て、それから俺の顔を見た。


「……フォー、ミー?」

「いえす、いえす。ふぉーゆー」


彼女は両手でみかんゼリーを受け取った。大事そうに。まるで宝物みたいに。

そして、泣きながら食べ始めた。

しゃがみ込んだまま、涙を拭きもせず、スプーンも使わず、パッケージからそのまま啜るように。泣いて、食べて、また泣いて。


俺はベンチに座ったまま、その光景を見ていた。

何も言えなかった。言葉が通じないからじゃない。何を言えばいいのかが、本当にわからなかったんだ。

なぜこの人はこんなにも泣いているのか。みかんゼリーひとつで、なぜここまで。


彼女がみかんゼリーを食べ終えた頃、涙はようやく止まっていた。目は赤く腫れていたが、表情は穏やかになっている。彼女は空になったパッケージを丁寧にリュックにしまい、立ち上がった。

そして俺に向き直り、深く頭を下げた。


「サンキュー。ホントニ、サンキュー」

「……おう」


それだけのやり取りだった。彼女は踵を返し、来た道を戻り始めた。


——で、終わるはずだった。


3歩ほど歩いたところで、彼女が立ち止まった。振り返る。また、あの困り顔だ。何かを言おうとして、でも言葉が出てこなくて、口を開いては閉じている。

やがて、意を決したように言った。


「アノ……オレイ、シタイ。ミキョンジュリノ、オレイ」


お礼、したい。みかんゼリーの、お礼。

今度は、聞き取れた。


「お礼って、別にいいよ。たかがゼリーだし」


手を振って断ったつもりだったが、彼女は首を横に振った。強い目だった。


「ノー。オレイ、シタイ。プリーズ」


そう言って、彼女はリュックからスマートフォンを取り出した。画面を俺に向ける。連絡先の交換画面だった。

みかんゼリーのお礼がしたいから、連絡先を教えてほしい。

そういうことらしい。


……今にして思えば、ここで断っていたら、俺の人生は今とはまったく違うものになっていただろう。でも、あの瞬間、断る理由が見つからなかった。泣きながらゼリーを食べていた彼女の姿が、まだ頭に残っていたからかもしれない。


「……しょうがねえな」


俺もスマートフォンを取り出した。

画面を並べて、連絡先を交換する。彼女の名前が表示された。読み方がわからない。ヨーロッパの名前だろうか。アルファベットの綴りを見ても、どう発音するのか見当がつかない。


「ゆー、ねーむ?」


聞いてみた。彼女は自分の名前を発音した。俺は3回聞き直したが、それでも正しく言える自信がなかった。

彼女は笑った。さっきまで泣いていたのが嘘みたいに、屈託のない笑顔だった。


「ダイジョブ。ムツカシイ」


大丈夫、難しい。——お前の名前がな。


彼女は手を振って、今度こそ本当に歩き去っていった。東屋から続く山道を、軽い足取りで。


俺はベンチに座ったまま、しばらくスマートフォンの画面を見ていた。

知らない名前。読めない綴り。たった1個のみかんゼリーで繋がった、細い糸。

こんなもの、たぶん何にもならない。連絡が来たとしても、言葉が通じないんだから会話にならない。社交辞令で交換しただけで、お互いそのまま忘れるだろう。


——そう思っていた。

本気で、そう思っていたんだ。


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