「みかんゼリー」
どのくらい時間が経っただろう。5分か、10分か。久しぶりに、時計を気にしない時間を過ごしていた。
不意に、足音が聞こえた。
砂利を踏む軽い音。1人分。規則的だが、少しだけ不慣れな歩き方。ヒールではないが、山歩きに慣れた足取りでもない。
目を開けると、1人の女性が東屋に入ってくるところだった。
外国人だった。
肌が白い。髪は明るい色で、無造作にひとつに束ねている。身長は俺より少し低いくらい。服装はアウトドア寄りだったが、どこか街着の延長みたいな雰囲気もあった。リュックは小さめで、観光客のようにも、そうでないようにも見える。
目が合った。
俺は軽く会釈した。山での挨拶は基本だ。相手も小さく頭を下げた。その仕草が、なんというか、ぎこちなくて丁寧だった。日本式のお辞儀を頑張って真似している、という感じ。
彼女はベンチの反対側に座った。俺とは少し距離を置いて。リュックを下ろし、ペットボトルの水を取り出して飲んでいる。
静かだった。いい距離感だと思った。
——そこまでは、よかったんだ。
「アノー、スマミセン」
声をかけられた。彼女のほうからだ。すみません……と言いたいのだろうか。
「はい?」
返事をすると、彼女はこちらを向いて、少し困ったような顔をしていた。笑顔なんだが、眉が下がっている。何かを伝えたいのに伝わるか不安、という顔だ。
「ミキョンジュリ、アルリマカ?」
……ん?
日本語、なのか?日本語っぽい雰囲気ではあった。だが、単語として頭に入ってこない。
「すみません、もう一度お願いします。えーと……わんもあー、ぷりーず」
我ながらひどい英語だったが、通じたらしい。彼女は頷いて、もう一度言った。
「ミキョンジュリ、アリマラカ?」
ダメだ。さっぱりわからない。
何かの単語なのか、文章なのか、それすら判別できない。ミキョンジュリ。何語だ?彼女の母国語か?いや、さっき「アノー、スマミセン」と言っていたから、日本語で話そうとしているはずだ。だが、俺の知っている日本語の中に「ミキョンジュリ」に該当するものが見つからない。
「そーりー。あい、どんと、のー」
申し訳ないが、ギブアップだ。
「オー、ソーリー、サンキュー」
彼女は少し残念そうに微笑んで、それ以上は何も言わなかった。
会話終了。
まあ、こういうことはある。外国の人と言葉が通じないのは、誰が悪いわけでもない。俺は気持ちを切り替えて、ベンチに座り直した。
さて、そろそろ小腹が空いてきた。
リュックを開けて、今朝コンビニで買ったみかんゼリーを取り出す。このみかんゼリーを見て山を思い出し、今日ここに来たわけだから、ここで食べるのがいちばん正しい。
パッケージを開けようとした、そのとき。
「ヘイ、ユー!ミキョンジュリ!アールジョノイデシカ!!」
ものすごい声が飛んできた。
驚いて顔を上げると、彼女が立ち上がっていた。さっきまでの困り顔はどこへやら、目を見開いて、俺を——正確には俺の手の中のみかんゼリーを——指差している。
「はぁ?」
意味がわからない。何がどうなった。なぜ怒っている。
「ワタシ!ミキョンジュリ、キイタ!アタタ、アイドンノー、イタ!ウソツキ!!」
言葉が早い。感情が乗って、さらに聞き取りにくくなっている。だが、いくつかの単語は拾えた。「ワタシ」「キイタ」「アイドンノー」——そして最後に、はっきりと聞こえた一語。
ウソツキ。
「……俺が、うそつき?」
声のトーンが落ちた。自分でわかった。
俺は短気なほうじゃない。むしろ我慢強いほうだと思っている。仕事で理不尽なことを言われても、大抵は飲み込む。だけど、身に覚えのないことで「うそつき」と言われるのは、話が別だ。
「どういうことだよ。俺が何の嘘をついたんだ」
日本語で言った。通じないのはわかっている。だけど、こっちも感情が出た。
彼女は半分泣きそうな顔になっていた。怒りと悲しみが混ざったような、こどもが駄々をこねるような表情。そして、震える指で俺の手の中にあるものを差した。
「ミキョンジュリ」
みきょんじゅり。
みきょん、じゅり。
み、かん、ゼリー——。
「……ああ」
頭の中で、パズルのピースがカチッとはまった。
ミキョンジュリじゃない。みかんゼリーだ。彼女はさっきから、ずっと「みかんゼリー」と言っていたんだ。
「ミキョンジュリ、アルリマカ」は「みかんゼリー、ありますか」。「アールジョノイデシカ」は「あるじゃないですか」。つまり——持っているのに「知らない」と言った俺は、彼女にとって「ウソツキ」だったわけだ。
なんだそりゃ。
思わず、笑いそうになった。いや、笑っちゃいけない。彼女は本気で怒っている。泣きそうになっている。でも、その理由が「みかんゼリー」って。
「なに、みかんゼリーが欲しいわけ?ゆー、うぉんと、でぃす?」
みかんゼリーを軽く持ち上げて見せた。
「イェス!ィィィイエス!」
すごい勢いで頷かれた。さっきまで泣きそうだった目が、一瞬で輝いた。この切り替えの速さは何なんだ。
だが——俺はそのままみかんゼリーを引っ込めた。
「のー」
正直に言おう。意地悪がしたかったわけじゃない。あげてもよかった。だけど、さっきの態度が引っかかっていた。初対面でいきなり怒鳴られて、うそつき呼ばわりされて、はいどうぞ——それは違うだろう。
すると。
彼女が、泣き出した。
声を上げて、その場にしゃがみ込んで、両手で顔を覆って、泣いた。
「ミキョンジュリー。アイ、ヲントゥー、ミキョンジュリー」
嗚咽混じりの声が、静かな山の中に響いた。
……参った。
こういうのに弱いんだ、俺は。泣かれると、途端にどうしていいかわからなくなる。しかも外国人の女性だ。言葉は通じない。ここは山の中の東屋で、周りには誰もいない。泣いている女性と、みかんゼリーを握りしめた男。絵面が最悪すぎる。
「……わかった、わかったよ。はい」
みかんゼリーを差し出した。彼女は顔を上げ、涙で濡れた目でゼリーを見て、それから俺の顔を見た。
「……フォー、ミー?」
「いえす、いえす。ふぉーゆー」
彼女は両手でみかんゼリーを受け取った。大事そうに。まるで宝物みたいに。
そして、泣きながら食べ始めた。
しゃがみ込んだまま、涙を拭きもせず、スプーンも使わず、パッケージからそのまま啜るように。泣いて、食べて、また泣いて。
俺はベンチに座ったまま、その光景を見ていた。
何も言えなかった。言葉が通じないからじゃない。何を言えばいいのかが、本当にわからなかったんだ。
なぜこの人はこんなにも泣いているのか。みかんゼリーひとつで、なぜここまで。
彼女がみかんゼリーを食べ終えた頃、涙はようやく止まっていた。目は赤く腫れていたが、表情は穏やかになっている。彼女は空になったパッケージを丁寧にリュックにしまい、立ち上がった。
そして俺に向き直り、深く頭を下げた。
「サンキュー。ホントニ、サンキュー」
「……おう」
それだけのやり取りだった。彼女は踵を返し、来た道を戻り始めた。
——で、終わるはずだった。
3歩ほど歩いたところで、彼女が立ち止まった。振り返る。また、あの困り顔だ。何かを言おうとして、でも言葉が出てこなくて、口を開いては閉じている。
やがて、意を決したように言った。
「アノ……オレイ、シタイ。ミキョンジュリノ、オレイ」
お礼、したい。みかんゼリーの、お礼。
今度は、聞き取れた。
「お礼って、別にいいよ。たかがゼリーだし」
手を振って断ったつもりだったが、彼女は首を横に振った。強い目だった。
「ノー。オレイ、シタイ。プリーズ」
そう言って、彼女はリュックからスマートフォンを取り出した。画面を俺に向ける。連絡先の交換画面だった。
みかんゼリーのお礼がしたいから、連絡先を教えてほしい。
そういうことらしい。
……今にして思えば、ここで断っていたら、俺の人生は今とはまったく違うものになっていただろう。でも、あの瞬間、断る理由が見つからなかった。泣きながらゼリーを食べていた彼女の姿が、まだ頭に残っていたからかもしれない。
「……しょうがねえな」
俺もスマートフォンを取り出した。
画面を並べて、連絡先を交換する。彼女の名前が表示された。読み方がわからない。ヨーロッパの名前だろうか。アルファベットの綴りを見ても、どう発音するのか見当がつかない。
「ゆー、ねーむ?」
聞いてみた。彼女は自分の名前を発音した。俺は3回聞き直したが、それでも正しく言える自信がなかった。
彼女は笑った。さっきまで泣いていたのが嘘みたいに、屈託のない笑顔だった。
「ダイジョブ。ムツカシイ」
大丈夫、難しい。——お前の名前がな。
彼女は手を振って、今度こそ本当に歩き去っていった。東屋から続く山道を、軽い足取りで。
俺はベンチに座ったまま、しばらくスマートフォンの画面を見ていた。
知らない名前。読めない綴り。たった1個のみかんゼリーで繋がった、細い糸。
こんなもの、たぶん何にもならない。連絡が来たとしても、言葉が通じないんだから会話にならない。社交辞令で交換しただけで、お互いそのまま忘れるだろう。
——そう思っていた。
本気で、そう思っていたんだ。



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