出会いの、みきょんじゅり[第1話]

出会いの、みきょんじゅり
第 1 話

「山を登る理由」

これは俺の話だ。

いや、正確に言えば「俺たちの話」か。まあ、聞いてくれよ。酒の肴にでもなればいい。

ん?俺は誰かって?そんなことはどうでもいい、好きに想像してくれ。話を始めるぞ。


俺はもともと山が好きだった。大げさな登山じゃない。休みの日にふらっと車を走らせて、アップダウンの少ないコースをのんびり歩く、その程度のハイキングだ。頂上を目指すとか、タイムを縮めるとか、そういう野心はない。ただ歩く。土を踏む。風に吹かれる。木漏れ日の中で水筒のお茶を飲む。それだけで十分だった。

山を歩いているとき、俺は何も考えなくていい。仕事のメールも、上司の顔も、飲み会の愛想笑いも、全部どこかに置いてこられる。俺にとって山は、自分を取り戻す場所だったんだ。


——だけど、いつの間にか、行かなくなっていた。


きっかけなんて覚えていない。たぶん最初は「今週はちょっと忙しいから」くらいの理由だった。それが2週間になり、1ヶ月になり、気づけば1年以上、登山靴に触れていなかった。

代わりに何をしていたかといえば、働いていた。ただひたすら、働いていた。


当時の俺は、まあ、今思い返しても酷い状態だったと思う。朝は始発で出て、終電で帰る。休日も会社の携帯が鳴る。同僚とは数字の話しかしない。友人の誘いは断り続け、そのうち誘いそのものが来なくなった。

疲れていた、なんて言葉じゃ足りない。擦り切れていた。自分が何を好きだったのかすら、思い出せなくなっていたんだ。


転機は、本当にくだらないことだった。


ある日の昼休み、コンビニで弁当を買おうとして、棚の前でぼうっと立ち尽くした。何を食べたいのかがわからない。腹は減っている。だけど、何ひとつ「食べたい」と思えない。


そのとき、棚の端に並んでいたみかんゼリーが目に入った。


……みかんゼリー。


なぜだかわからないが、そのオレンジ色を見た瞬間、山の景色が頭に浮かんだ。秋の山を歩いたとき、東屋で休憩しながらみかんゼリーを食べたこと。冷たくて、甘くて、疲れた体に染み渡ったこと。あの日の空気の匂い。


……ああ、俺、山に行きたいんだな。


思い始めたら、もう止まらなかった。翌日、半ば強引に有給休暇を取った。上司には体調不良とでも言ったと思う。嘘は好きじゃないが、「山に行きたいので休みます」で通るような職場じゃなかった。


朝、玄関の靴箱から登山靴を引っ張り出した。薄く埃を被っていて、少しだけ申し訳ない気持ちになった。お前のこと、忘れてたわけじゃないんだ。——いや、忘れてたな。正直に言おう。忘れてた。すまん。


車を走らせた。1時間ほどで着く、馴染みの山だ。駐車場に車を停めて、登山靴の紐を結ぶ。この動作だけで、体のどこかがほどけていくのがわかった。

歩き始めた瞬間の、あの感覚を、俺はたぶん一生忘れない。

土の柔らかさ。枯れ葉を踏む音。少しひんやりした空気が肺に入ってくる。木々の間から漏れる光が、足元にまだら模様を作っている。


——これだ。


この感覚。俺が1年以上、置き忘れてきたもの。自分の足で歩いて、自分の目で見て、自分の肺で呼吸する。たったそれだけのことが、こんなにも心を静かにしてくれる。

ゆっくり歩いた。急ぐ理由はどこにもない。途中、何度か立ち止まっては景色を眺めた。遠くの山並みがぼんやり霞んでいて、それがまたよかった。


やがて、コースの中腹にある東屋が見えてきた。屋根のついたベンチがあるだけの、なんてことない休憩所だ。だけど俺はこの東屋が好きだった。ここに座ると、ちょうど谷の向こうの稜線が一望できる。

ベンチに腰を下ろし、リュックから水筒を取り出す。温かいほうじ茶を一口。

……うまい。

ただのほうじ茶だ。家で淹れてきた、なんの変哲もないほうじ茶。だけどこの場所で、この空気の中で飲むと、まるで別物になる。


リュックの中には、もうひとつ。今朝コンビニで買ったみかんゼリーが入っている。あとで食べよう。もう少し、この静けさを味わっていたい。

俺はベンチに背を預けて、目を閉じた。風が木々を揺らす音。遠くで鳥が鳴いている。


このとき、俺はまだ知らなかった。

この東屋で、俺の人生がまるごと変わることになるなんて。


出会いの、みきょんじゅり[第2話]
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