変換についての覚え書き 後編
——あるいは、佐伯マコトの最悪な一日についての続報
翌朝。佐伯マコトは決意していた。
今日は絶対に、送信前に三回確認する。三回だ。
最初の仕事は、社内イベントの案内メールだった。福利厚生の一環で、来月の懇親会で使える食事補助が出る。その案内文。簡単な仕事だ。
——確認。一回目。よし。二回目。よし。三回目——
佐伯の目が、三回目でようやくそれを捉えた。
危なかった。危なかったが——捕まえた。今日は昨日とは違う。佐伯は学んだのだ。
こっそりガッツポーズをして、変換を直す。直して、送信する。
——ここまでは、よかった。
十時。取引先の丸山物産から、秋田支社への発送スケジュールについて問い合わせが来た。
返信の中で、秋田県の支社宛てに——と打つ。確認する。
飽きた件。何に飽きたのか。仕事にか。人生にか。
そんな哲学を問いかけてくる変換予測がどこにある。
直した。直して送った。大丈夫。今日は全部、送信前に捕まえている。まだ無傷だ。
問題は、十一時に来た。
部長から内線。「佐伯くん、昨日のシステム障害の報告書、入力内容をまとめて送って」
確認——したのだ。三回。いや四回かもしれない。確かに確認した。
しかし画面の中で、「内容」は「無いよう」に姿を変えていた。
入力が、無いようを、まとめた。無を、まとめた。哲学か。禅問答か。
送信済みフォルダでそれを発見したとき、佐伯は三十秒ほど天井を見つめた。
隣の後藤さんが「大丈夫?」と聞いてきた。大丈夫じゃない。
昼休み。片桐との会話は自然と、佐伯のパソコン問題に戻る。
「出したんだよ。今朝チャットで相談した」
「で?」
「『症状を聞く限り、近寄りたくないですね』って返信しようとしたらしいんだけど」
佐伯はスマホの画面を片桐に見せた。
「もうこの会社全体が呪われてんのかもしれない」
片桐が箸を止めて、真顔になった。
佐伯は無言でスマホに「癒やしを求める」と打った。
ふたりとも、しばらく黙った。
「やめろ。感動するな。IMEに感動するな」
午後。気分転換に、休憩室で後藤さんと雑談をしていた。後藤さんの姪っ子が、夏休みの自由研究で歴史をテーマに選んだらしい。
佐伯は、自分のパソコンで「産業革命」と打つのが怖くなった。——試しに打ってみた。
後藤さんの姪っ子が三行書く、という謎の情景が浮かんだ。
「何の話?」
「いや、こっちの話です」
十五時。経理の山田さんから、昨日のお詫びにと旧デザインの千円札をもらった。記念品として持っていたらしい。
何気なくチャットで片桐に報告した。
「九千円札って何? そんな紙幣ある??」
「ない。断じてない」
十六時。もう定時まであと少しだ。
最後に、来週のプレゼン資料の修正指示を後輩に送る。テーマはチームワークの重要性。スライドの一枚に、フランス文学の引用を入れる案があった。
確認する。一回、二回、三回——
三十四。何の三十四だ。
ただの数字が、何の脈絡もなくスライドに鎮座する未来が見えた。後輩の困惑した顔が見えた。佐伯は静かに、バックスペースキーを押した。
定時。帰り際、エレベーターで部長と一緒になった。
「はい。……今日は全部、送信前に止めました」
部長がうなずいて、珍しく笑った。
佐伯の脳裏に、あの変換が過ぎった。
停滞した何かの、しっぺが、壊死する。もう意味がわからない。意味がわからないのに、なぜか頭から離れない。
「何の話?」
「いや——こっちの話です」
エレベーターが一階に着いた。春の夕暮れが、ロビーのガラス越しにやわらかく差し込んでいる。
スマホが震えた。片桐からメッセージ。
「今日も飲む?」
佐伯は打ち返す。今度こそ、慎重に。一文字ずつ。
「いく」。
——送信。
変換ミスの余地すらない、たった二文字のひらがなが、妙に清々しかった。



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