変換についての覚え書き 前編
——あるいは、佐伯マコトの最悪な一日について
佐伯マコトが総務部に異動して三ヶ月、ようやくわかったことがある。
このパソコンのIMEは、敵だ。
その日の朝イチ、部長への確認メールを打った。
送信ボタンを押してから、送信済みフォルダを開いて凍りついた。
——は?
慌てて取り消そうとしたが遅い。部長の席から低い声が飛んできた。
「違います、変換ミスです!!」
課内の視線が突き刺さる。朝九時六分。一日の終わりを祈るには早すぎる時間だった。
気を取り直して、会議用の資料を添付する。
件名——資料を見て。打った。変換した。確認した——つもりだった。
部長がパソコンの画面を二度見しているのが、パーティションの隙間から見えた。
「変換ミスです!!」
二度目ともなると、もう課内に笑いが漏れている。隣の席の後藤さんが「憑かれてんじゃない?」と小声で言ったのは、たぶん「疲れてんじゃない?」の意味だったと信じたい。
昼休み、唯一の味方である同期の片桐にメッセージを送った。
今日は眼科——午後休を取って眼科に行く、という報告。ただそれだけのはずだった。
片桐から鬼のような速度で電話がかかってきた。
「目です——いや何もガン化してない!! 眼科! 眼科に行くって打っただけ!!」
電話の向こうで片桐が絶句したあと、腹を抱えて笑い始めるのが聞こえた。こっちは笑えない。
翌日。もう打つのが怖い。
しかし仕事は待ってくれない。
全部署に回す在庫報告書を作っている。
——全部処分。在庫を。全部。処分。
と叫んだときにはもう、経理の山田さんから内線が鳴っていた。
「取ってません! 変換ミスです!」
このパソコンは確実に、自分を辞めさせにきている。佐伯は確信した。
定時間際。最後のメール。
今日の作業完了を報告するだけだ。もう何も難しいことは書かない。一文字一文字、確認しながら打つ。
公開完了。——よし。今度こそ大丈夫だ。
送信。
五秒後、自分のメールを開き直した佐伯の目に映ったもの。
何の効果で、何を移管して、いくらかかるのか。自分でもまったくわからない文字列が、部長のもとへ飛んでいった。
帰り道、片桐と駅前の居酒屋に寄った。
ビールを半分あけたところで、片桐が言った。
佐伯は遠い目をした。
「誰だよ四郎」
片桐がまた笑い出す。つられて佐伯も笑った。
笑いながら、スマホでカレンダーを開く。明日の予定を確認しようとして、画面に浮かんだ文字を見て手が止まった。
カレンダー——ではなく、
佐伯は静かにスマホを裏返して、テーブルに置いた。
「……もう、何も打ちたくない」
居酒屋の喧騒の中、ジョッキのビールだけが静かに泡を弾いていた。



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