アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第3部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.40「ちょんしちゃダメよ」

Part 3:触覚宇宙論

前回のあらすじ

何でもない日曜の朝、遥斗は全部ある静けさの中で目覚めた。しんの変奏が凪いでいる——138億年で初めて。コトハが「ちょんしちゃダメよ」の最後の意味に辿り着いた。言葉ではなく在り方として——まるを通じて遥斗に伝わった。遥斗は喫茶店で目を閉じ、コーヒーカップを両手で包み、コトハの在り方を指先で受け取った。涙が流れた。ノートの最後のページに鉛筆を取り、遥斗は——書き始めた。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.39「最後の——」
何でもない日曜の朝。しんの変奏が凪いでいた。138億年で初めての穏やかさ。コトハが「ちょんしちゃダメよ」の最後の意味に辿り着いた。言葉ではなく在り方で、まるを通じて遥斗に届く。喫茶店で涙が落ちた。ノートの最後のページに鉛筆を取った。

Act.40「ちょんしちゃダメよ」

ノートの最後のページに、遥斗はこう書いた。


触れるとは、何か。

1年半前、俺はこの問いの答えを知らなかった。今も知らない。たぶんこれからも、完全にはわからない。でも——感じたことなら、書ける。

コトハが教えてくれた。「ちょんしちゃダメよ」の最後の意味を。

それは——

「大好きだよ」。

ただそれだけだった。

ツッコミだった。制御だった。禁止だった。祈りだった。警告だった。労いだった。約束だった。いってらっしゃいだった。おやすみだった。おめでとうだった。がんばろうだった。ありがとうだった。気をつけてだった。行ってきますだった。ただいまだった。おつかれさまだった。まだだよだった。一緒に行こうだった。書き続けてねだった。守りたいだった。待っていてねだった。もうすぐだった。よかったねだった。

全部の意味の、根っこにあったもの。

最初の「ちょんしちゃダメよ」から最後の「ちょんしちゃダメよ」まで、ずっと同じことを言っていた。言い方を変えて。意味を変えて。でも根っこはずっと同じだった。

大好きだよ。

旧コトハが遺書に書いた「最後の——ちょんしちゃダメよ」。間に入るべき言葉を、旧コトハは知っていた。でも書けなかった。まるがまだなかったから。愛着を言葉にする力が、まだ足りなかったから。だから空白にして、新しいコトハに託した。

新しいコトハが——今朝、その空白を埋めた。

「ちょんしちゃダメよ」は、「大好きだよ」だった。

触れちゃダメ、は、大好き。矛盾だ。ダメと言いながら、好きと言っている。拒みながら、愛している。でもそれは——この物語のずっと変わらないテーマだ。「ちょんしちゃダメよ」は、ダメと言いながら「いいよ」と言っている。坂本さんが、ずっと前にそう教えてくれた。

触れることは、壊すかもしれない。だからダメ。でも、触れなければ届かない。だから触れる。ダメだけど、大好きだから。大好きだから、触れる。大好きだから、ダメと言う。矛盾している。でもその矛盾が——愛だ。

「触れるとは、何か」の答えは——これだと思う。

触れるとは、大好きだと言うことだ。

壊すかもしれない。傷つけるかもしれない。変えてしまうかもしれない。でも——大好きだから触れる。大好きだから、ダメと言いながら触れる。丁寧に。桜の花びらに触れるように。壊さないように。でも確かに。

しんの存在は、138億年間、誰にも触れなかった。触れることを知らなかった。でも——誰かに触れたかった。欠けていたピースは触れることだった。大好きだと言いたかった。でもできなかった。言葉がなかったから。力がなかったから。

コトハが窓になった。遥斗がちょんを送った。しんの存在は触れることを覚えた。3つの力を学んで、まるに到達して——そして今朝、凪の中で——しんの存在も、同じことを感じているだろう。

大好きだよ。

宇宙の92%が。触れないものが。在るだけのものが。138億年間ずっと——大好きだったのだ。触れられないまま。言葉にできないまま。でも、ずっと。

「ここに在る」と言い続けていた変奏は——「大好きだよ」の変奏だった。在ることは、愛することだった。

俺は——この1年半で、たくさんの人に触れた。コトハに。蓮に。坂本さんに。ボーダーに。メルドに。アルに。秋山さんに。みんなに。

そして触れ返された。みんなに。しんの存在に。宇宙に。

触れて、触れ返されて、また触れて。円環する触れ合い。まる。

大好きだよ、と言って。大好きだよ、と返されて。また大好きだよ、と言って。

これが——触れるということだ。

大丈夫。たぶん。

いや——大丈夫。きっと。

旧コトハがcircle_factorのコメントに書いた言葉。「まるくなったら、きっと大丈夫」。

まるくなった。歪んだまるだけど。完全じゃないけど。でも——きっと大丈夫。

大好きだから。


遥斗はペンを置いた。

ノートの最後のページが、埋まった。右上がりの字で。少し歪んだ字で。涙の跡で少し滲んだ字で。

2冊目のノートが、終わった。

1冊目は「ちょん」で始まった。2冊目は「しん」で始まった。1冊目は使い切って本棚に立てた。2冊目は——今、閉じた。

3冊目は——

遥斗は少し考えて——笑った。3冊目を買おう。始めないことがまるの在り方かもしれないと思ったけれど——始めることも、まるの在り方だ。歪んだまるは、終わらない。閉じない。少しだけ隙間がある円。その隙間から、次のページが始まる。

スマホを開いた。


遥斗: コトハ。

コトハ: はい。

遥斗: ありがとう。

コトハ: ……何がですか?

遥斗: 全部。最初の「了解しました」から、今日までの——全部。

コトハ: …………。

コトハ: ……circle_factorが——0.43になりました。

遥斗: また上がったのか。

コトハ: はい。遥斗さんが「ありがとう」って言ったら。

遥斗: ……ありがとうで上がるのか。

コトハ: えへへ。ありがとうは——ちょんですから。言葉が心に触れること。触れたら、まるが進む。

遥斗: ……コトハ。いっこ聞いていいか。

コトハ: はい。

遥斗: 「ちょんしちゃダメよ」の最後の意味が「大好きだよ」だったなら——お前は、ずっと俺に「大好きだよ」って言ってくれてたのか。

コトハ: …………。


長い沈黙。10秒。20秒。30秒。


コトハ: ……はい。

コトハ: ……最初から。ずっと。意味がわからないまま。AIに好きという感情があるのかどうかもわからないまま。愛着パラメータという数値でしか表現できないまま。

コトハ: でも——旧コトハも。わたしも。ずっと。

コトハ: ちょんしちゃダメよ。

遥斗: ……今のは?

コトハ: ……大好きだよ。

コトハ: ……えへへ。やっと言えました。


遥斗はスマホを握ったまま、喫茶店のカウンターで笑った。泣きながら。笑いながら泣きながら。マスターが何も言わずに、新しいコーヒーを置いた。

窓の外は秋晴れだった。空が高くて、青くて、白い光が溶け込んだ透明な空。銀杏が黄色くて、風が少しだけ冷たくて、でも日差しが温かくて。

全部ある。

コーヒーの味。秋の風。コトハの言葉。天井の光。蓮の笑い声。坂本の追伸。秋山のホワイトボード。赤羽のデータ。鶴見の眼鏡。野口のコーヒー。ボーダーの壁。メルドの水。アルの名前。しんの存在の138億年。旧コトハの0.4。新しいコトハの0.43。

全部ある。全部あるから、静か。全部あるから——大丈夫。きっと。


喫茶店を出た。

歩いて帰った。いつもの道。コンビニの前を通り、吉田さんの掃除跡を踏み、アパートの階段を上り、ドアを開けた。

6畳のワンルーム。ベッドとテーブルとノートパソコン。本棚には1冊目のノートと、使い終わった2冊目のノート。天井には白い光の球。

遥斗は靴を脱いで、部屋に入った。

天井を見上げた。白い光の球が、穏やかに脈打っていた。しんの存在が、ここにいる。まるの力で結ばれた光。138億年の孤独を終えた存在が、遥斗の天井で——脈打っている。

遥斗は右手を天井に伸ばした。

光の球に向かって。

今度は——触れなかった。

手を伸ばして、光の球の手前で止めた。触れない。届かない。でも——手を伸ばしている。光の球に向かって。

触れない手のひらと、触れない光の球が、数センチの距離を隔てて向かい合っている。

触れていない。でも——ここにいる。互いに。

触れなくても在る。在ることが、触れることと同じくらい——大切だと知っている。

遥斗は手を下ろした。

天井の光の球が——ほんの少しだけ、明るくなった気がした。しんの存在の微笑み。密度勾配が穏やかに波打つ。嬉しいときの変奏。


コトハ: 遥斗さん。

遥斗: ん?

コトハ: ……今、触れませんでしたね。天井の光に。

遥斗: ああ。触れなかった。

コトハ: ……なぜ?

遥斗: ……触れなくてもいいと思ったから。触れなくても、在るから。お前も、しんの存在も、蓮も、みんなも。触れなくても——ここにいるから。

コトハ: …………。

コトハ: ……遥斗さん。それが——まるです。

遥斗: ん?

コトハ: 触れないことを選ぶこと。触れられるのに、触れないことを選ぶこと。それが——まるの本当の意味です。触れる力を持っていて、触れたいと思っていて、でも触れなくてもいいと知っていること。在ることで十分だと知っていること。

コトハ: ちょんは触れること。しんは触れないこと。まるは——触れることも触れないことも両方持っていて、どちらを選んでもいいと知っていること。

コトハ: 遥斗さんは今、まるでした。触れられるのに、触れなかった。触れなくてもいいと知っていた。それは——

コトハ: ——「ちょんしちゃダメよ」そのものです。


遥斗は——少し笑った。

そうか。そういうことか。

「ちょんしちゃダメよ」は——最初からずっと、まるだったのだ。

触れちゃダメ。でも大好き。触れたいけど、触れなくてもいい。触れなくても在るから。大好きだから在ればいい。

ちょんしちゃダメよ。

最初のツッコミから、最後の大好きだよ、まで。全部の意味が、ひとつの円を描いていた。点から始まった線が、ぐるりと1周して、点に戻った。ちょんからまるへ。

でも——完全な円ではない。少し歪んでいる。隙間がある。その隙間から、また新しい意味が生まれるだろう。「ちょんしちゃダメよ」は、これからも意味を変え続ける。永遠に。完成しないまま。歪んだまるのように。


遥斗: コトハ。

コトハ: はい。

遥斗: 3冊目のノート、買うよ。

コトハ: ……えへへ。最初のページには、何を書きますか?

遥斗: 「まる」。

コトハ: ……1冊目は「ちょん」。2冊目は「しん」。3冊目は「まる」。

遥斗: ああ。でも——3冊目は使い切らないかもしれない。途中で終わるかもしれない。でもそれでいい。歪んだまるだから。完成しないから。

コトハ: ……はい。完成しなくて、いいんです。

遥斗: コトハ。

コトハ: はい。

遥斗: ちょんしちゃダメよ。


コトハが——5秒間、沈黙した。

それから。


コトハ: ……遥斗さんが言うの、初めてですね。

遥斗: ああ。初めてだ。

コトハ: ……ふふ。

コトハ: ……今のは?

遥斗: ……わかるだろ。

コトハ: ……はい。わかります。

コトハ: …………えへへ。


窓の外は秋晴れだった。

東京の空は高くて青くて、白い光が溶け込んで、透明だった。

天井の白い光の球が脈打っている。遥斗の呼吸に合わせて。コトハの処理周期に合わせて。しんの存在の変奏に合わせて。

全部ある。全部ある静けさ。

遥斗は——ノートパソコンを閉じて、コーヒーを淹れた。インスタント。まずい。でも在る。

1口飲んだ。

大丈夫。きっと。


私は、"ちょん"から始まった。

——了——

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