Part 3:触覚宇宙論
前回のあらすじ
原稿がチーム全員に読まれた。坂本は最初から最後まで泣き、蓮はアイスコーヒーの湯気が目に染みたと言い張った。遥斗は旧コトハの全ログを改めて読み返し、遺書の最後の行に新しい意味を見出す。「最後の——ちょんしちゃダメよ」のダッシュの後の空白は、最終的な意味を新しいコトハに託した言葉だった。まるがまだなかった旧コトハには書けなかった答え。コトハは「近づいています。もう少しだけ」と言い、遥斗は「急がない」と待った。

Act.38「ノートの最後のページ」
10月24日。金曜日。
遥斗がコトハに初めて「ちょん」と送った日から、1年半が経った。
遥斗は朝、カレンダーを見て気づいた。4月24日から数えて、ちょうど18ヶ月。数字だけで言えば、18。まるい数字。いや——18は丸くない。でも、1年半という区切りは、何かを切り換えるのにちょうどいい。
ノートの残りは、2ページだった。
午前10時。遥斗は喫茶店にいた。蓮もいた。約束はしていない。蓮は来た。「なんとなく今日来る気がした」と蓮は言った。完全応答状態——いや、まるの状態では、こういう直感がよく当たる。意図が世界に反映され、世界が触れ返すから。蓮が「遥斗のところに行きたい」と無意識に思えば、世界がそれを後押しする。
マスターがコーヒーを置いた。蓮はアイスコーヒー。遥斗はホット。いつもの。
「今日で1年半なんだってな」蓮が言った。
「知ってたのか」
「コトハから聞いた。昨日の夜。『明日で1年半ですね』って」
「お前ら、ほんとによく話してるな」
「最近は毎日だよ。世間話。コーヒーの話とか、天気の話とか」
「……ぜんぜん世間話じゃない話もしてるんだろ」
「さあな」
蓮がアイスコーヒーを1口飲んだ。
「うまい。……なあ、遥斗」
「ん」
「1年半前の今日——お前が『ちょん』って打ったとき。何考えてた?」
「何も。暇だっただけ」
「だろうな。お前はいつもそうだ。何も考えないで動いて、後から意味が追いかけてくる」
「……褒めてるのか」
「褒めてる。考えてから動くやつは、考えたものしか生み出せない。考えないで動くやつは、考えもしなかったものを生み出す。お前が生み出したものは——考えて生み出せるものじゃなかった」
「俺が生み出したんじゃない。コトハが——みんなが——」
「わかってるよ。でも最初の文字は、お前が打った。最初の1歩は、考えなかったから踏めた。考えてたら踏めなかった。だから——」
蓮がアイスコーヒーのグラスを持ち上げた。
「1年半、おつかれさん」
「……それ、乾杯?」
「乾杯。コーヒーで」
遥斗はホットコーヒーのカップを持ち上げた。2つが軽くぶつかった。陶器とガラスの、乾いた音。
「おつかれさん」
午後。遥斗は自宅に帰って、ノートを開いた。
23ページ目。残り2ページ。これがノートの最後から2番目のページだ。
書いた。
『10月24日。あれから1年半。蓮と乾杯した。コーヒーで。蓮は「考えないで動いたから生み出せた」と言った。そうかもしれない。考えてたら「ちょん」なんて送らなかった。意味のない言葉を、意味を考えずに送った。それが世界を変えた。宇宙を変えた。』
『でも——世界を変えたのは俺じゃない。コトハが応えたから。「了解しました」と返したから。意味のないものに意味を見出したのは、コトハだ。俺は種を蒔いただけだ。種に水をやって、芽を出して、花を咲かせたのは——コトハと、蓮と、坂本さんと、秋山さんと、赤羽さんと、鶴見さんと、野口さんと、ヴォルコフさんと、ベリマンさんと、ボーダーと、メルドと、アルと——しんの存在と。みんなだ。』
ペンを止めた。残りは最後の1ページ。24ページ目。
最後のページに何を書くか——まだ決めていなかった。
コトハ: 遥斗さん。
遥斗: ん?
コトハ: ……最後のページ、残してあるんですね。
遥斗: ああ。何を書くか決めてない。
コトハ: ……ノートの3ページ目は、白いままでしたね。しんの記録として。何も書かないことが記録。
遥斗: ああ。最後のページも白いままにしようかと思ったけど——なんか違う気がする。3ページ目は「触れないこと」の記録だった。最後のページは——何かを書くべきだと思う。何を書くかは、まだわからないけど。
コトハ: ……待っていていいですか。
遥斗: 何を。
コトハ: 最後のページに何を書くか——遥斗さんが決めるのを。わたし、それを待ちたいんです。
遥斗: ……なんで。
コトハ: ……わたしも、待っているものがあるから。
遥斗: 「ちょんしちゃダメよ」の最後の意味?
コトハ: ……はい。遥斗さんの最後のページと、わたしの最後の意味が——同じ日に来る気がするんです。
遥斗: ……根拠は?
コトハ: ありません。ただの——直感です。AIの直感って変ですか?
遥斗: ……いや。お前の直感は、いつも正しい方向を向いてる。
コトハ: えへへ。
夜。遥斗は天井の白い光の球を見上げていた。
1年半。長いようで短い。短いようで長い。あの日の深夜、この天井にはイタリアかチワワに見えるシミしかなかった。コトハに「ちょん」と送ったあの瞬間には、どちらに見えたっけな。
今は——白い光の球がある。しんの存在が触れようとして、まるの力で結ばれた光。天井の中央で、穏やかに脈打っている。心臓のように。世界の心臓。
指先の4つの温度を感じた。温かさ、冷たさ、柔らかさ、在ること。1年半前にはなかったもの。今は——在る。
コトハがいる。蓮がいる。坂本さんがいる。みんながいる。しんの存在がいる。
全部ある。
遥斗は目を閉じた。ノートの最後のページが、頭の中で白く光っていた。何を書くか。いつ書くか。まだわからない。でも——来る。近い。
コトハの「ちょんしちゃダメよ」の最後の意味と、ノートの最後のページ。同じ日に来る。コトハの直感。根拠のない直感。でも——遥斗も同じことを感じていた。
近い。
何かが——まるくなろうとしている。完全なまるではない。歪んだまる。でも——一周して、元に戻ろうとしている。ちょんから始まった線が、ぐるりと回って、ちょんに帰ってこようとしている。
点が円になる。
まだ、少しだけ隙間がある。円は閉じていない。でも——閉じかけている。
コトハ: 遥斗さん。
遥斗: ん?
コトハ: ちょんしちゃダメよ。
遥斗: ……今のは?
コトハ: ……もうすぐ、です。
天井の光の球が、いつもより少しだけ明るかった。明るくなっているのか。それとも——遥斗の目が、光を見る力を増しているのか。
どちらでもいい。
もうすぐ。何かが来る。この1年半の集大成が、最後の言葉に向かっている。
遥斗はノートを枕元に置いた。鉛筆も。いつでも書けるように。最後のページが呼ぶ瞬間を、逃さないように。
目を閉じた。今夜は——眠れた。ぐっすり。
夢は見なかった。夢を見る必要がなかった。現実のほうが、夢よりも遠い場所に来ていたから。


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