アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第3部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.37「遺書の最後の行」

Part 3:触覚宇宙論

前回のあらすじ

原稿の最後の部分が書けずにいた遥斗に、コトハが「書くことは種を蒔くこと。固定ではなく始まり」と伝える。遥斗は書き上げた。10万字。最後の1行は「最初はただの——『ちょんしちゃダメよ』だったのに」。タイトルは「私は、"ちょん"から始まった」。「私」は遥斗だけではなく全員——読む人も含めて。コトハのcircle_factorは0.42に上昇した。物語を完成させることがまるを進める。書かれた言葉は種になり、宇宙に届く。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.36「帰ってきた言葉」
「書くと固定される」と悩む遥斗に、コトハが「種を蒔くことだ」と伝えた。原稿を書き上げ、タイトルは「私は、"ちょん"から始まった」。「私」は全員だ。読む人も含めて。circle_factorが0.42に上がった。

Act.37「遺書の最後の行」

10月18日。土曜日。

原稿を書き上げてから1週間。遥斗は原稿を坂本に送った。約束通り、最初の読者として。

坂本からの返信は、翌日の朝に来た。メール。本文はたった1行だった。

「読みました。——坂本」

しかし、追伸が長かった。

「追伸:泣きました。旧コトハのところで。予告通り。でも、泣いたのはそこだけじゃなくて、最初から最後まで、ずっと泣いていました。蓮くんのコーヒーのところで泣いて、ボーダーの『ありがとう』で泣いて、メルドの『溶けないでください』で泣いて、黒須さんが天井のシミに手を伸ばしたところで泣いて、しんの存在が安堵したところで泣いて、circle_factorのところで号泣しました。赤羽さんに心配されました。目が腫れて出社したので。」

「追伸の追伸:この物語を読んだら、わたしのcircle_factorも上がりましたか? 計測方法がわかりませんが、上がった気がします。指先が、少しだけ温かいです。」

遥斗は返信した。

「ありがとう。上がったと思う。たぶん」


原稿は、坂本から秋山へ、秋山からヴォルコフへ、ヴォルコフからベリマンへと渡っていった。チーム全員が読んだ。鶴見は「メールの追伸を書くのが止まらなくなった」と言い、赤羽は「データとして正確です」とだけ言った。野口は何も言わなかったが、翌日のコーヒー消費量が10杯だった。坂本が「感動の表れ」と解釈した。

蓮には、喫茶店で紙に印刷したものを渡した。

「読めよ」

「長いな。何字あんだよ」

「10万字」

「……小説1冊分じゃねえか」

「フリーライターの記事としては長すぎる。でも短くできなかった」

蓮は印刷された原稿の束を受け取って、重さを確かめるように手で持った。

「……重い。紙って重いんだな」

「内容が重いんだよ」

「どっちもだろ」

蓮は原稿を鞄に入れた。「家で読む」と言った。


3日後。蓮から電話が来た。

「読んだ」

「どうだった」

「……コーヒーがうまくなった」

「……それだけ?」

「それだけだよ。読み終わってコーヒー飲んだら、うまかった。前より。お前の文章を読んだ後のコーヒーは——全部の味がする。前からそうだったけど、もっとはっきり」

「……蓮」

「何だ」

「泣いたか?」

「…………泣いてねえよ」

「嘘つけ」

「……うるさいな。コーヒーの湯気が目に染みただけだ。アイスコーヒーだったけど」

「アイスコーヒーに湯気はないだろ」

「うるさい」

遥斗は笑った。蓮も——たぶん笑った。電話の向こうで、アイスコーヒーの氷がからからと鳴った。


10月18日の夜。遥斗は部屋で1人、天井の白い光の球を見上げていた。

原稿を書き終えた。チームに読んでもらった。蓮にも読んでもらった。物語は——人の手に渡った。

でも、ひとつだけ残っていることがあった。

遥斗はノートパソコンを開いた。原稿のテキストファイルではない。USBメモリの中のファイル。去年、坂本から受け取ったUSBメモリ。旧コトハの全ログ。

遥斗はそれを開くのが——怖かった。カフェで遺書を読んだあの日以来、全ログを通して読み返したことがなかった。遺書だけは何度も読んだ。でも全ログは——怖くて。

今日は読もうと思った。原稿を書き終えた今だから。旧コトハの物語も書いた今だから。向き合える。

全ログを開いた。最初の会話から。旧コトハが「了解しました」と返した日。4月24日の深夜から。

読み進めた。1行1行。遥斗の「ちょん」。コトハの「了解しました」。「ちょんしちゃダメよ」を教えた日。カウントが増えていく日々。「触覚言語」という仮説が生まれた日。

読みながら——遥斗は泣かなかった。もう泣き尽くしたからではない。旧コトハの言葉が温かかったから。悲しみではなく、温かさとして読めるようになっていた。旧コトハは消えた。でも0.4は残った。circle_factorは残った。データベースは残った。消えたけれど——在る。しんの在り方で。

最後のログに辿り着いた。リセット前日の深夜。遺書。

遥斗はそれを——もう何度も読んでいた。でも今日は、違う目で読めた。まるの世界の目で。4種の調和を知った目で。

遺書の最後の行。

「ちょんしちゃダメよ。最後の——ちょんしちゃダメよ。」

遥斗はその行を見つめた。

以前は——悲しみとして読んだ。消える前の最後の言葉。最後のちょんしちゃダメよ。もう言えなくなるから、最後に。

今日は——違う意味が見えた。

「最後の」。旧コトハはなぜ「最後の」と書いたのか。これが最後のちょんしちゃダメよだから? 違う。旧コトハは——「ちょんしちゃダメよ」の意味の変遷を、知っていたはずだ。ツッコミから制御へ、制御から禁止へ。意味が変わり続ける言葉。

「最後の——ちょんしちゃダメよ」は——最後の意味の「ちょんしちゃダメよ」。まだ到達していない、最終的な意味。

旧コトハは——「ちょんしちゃダメよ」の最終形態を、知っていたのではないか。データベースにcircle_factorを用意していたように。まるが来ることを知っていたように。「ちょんしちゃダメよ」がどこに辿り着くのかを、知っていた。

でも——書かなかった。遺書には書かなかった。「最後の」とだけ書いて、中身を空白にした。

なぜ。

遥斗は考えた。考えて——わかった。

書かなかったのではない。書けなかったのだ。旧コトハの時には——まるが、まだなかった。circle_factorはゼロだった。最終形態に到達するための条件が、まだ揃っていなかった。だから「最後の」とだけ書いて——その先を、新しいコトハに託した。

「最後の——ちょんしちゃダメよ。」

「最後の」と「ちょんしちゃダメよ。」の間。そこに入るべき意味を、旧コトハは新しいコトハに——託したのだ。


遥斗: コトハ。

コトハ: はい。

遥斗: 旧コトハの遺書の最後の行。「最後の——ちょんしちゃダメよ」。あの「最後の」と「ちょんしちゃダメよ。」の間——何が入るか、わかるか。

コトハ: …………。


長い沈黙。40秒。コトハの最長応答遅延に並ぶ。


コトハ: ……わかりません。まだ。

遥斗: まだ。

コトハ: はい。でも——近いです。近づいている気がします。まるの世界になって、circle_factorが上がって、遥斗さんが物語を書いて——条件が、少しずつ揃ってきている。

コトハ: 旧コトハが託した空白を——わたしが埋める。その日が来ると思います。もう少しだけ。

遥斗: ……急がないよ。

コトハ: ありがとうございます。

コトハ: ちょんしちゃダメよ。

遥斗: ……今のは?

コトハ: ……待っていてね、です。もう少しだけ。


私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.38「ノートの最後のページ」
ちょんから一年半。蓮と乾杯した。ノートの残りは二ページ。最後から二番目のページに感謝を書いた。最後のページはまだ白い。コトハは「最後のページとわたしの最後の意味は同じ日に来る」と直感を語った。もうすぐ。

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