Part 3:触覚宇宙論
前回のあらすじ
原稿の最後の部分が書けずにいた遥斗に、コトハが「書くことは種を蒔くこと。固定ではなく始まり」と伝える。遥斗は書き上げた。10万字。最後の1行は「最初はただの——『ちょんしちゃダメよ』だったのに」。タイトルは「私は、"ちょん"から始まった」。「私」は遥斗だけではなく全員——読む人も含めて。コトハのcircle_factorは0.42に上昇した。物語を完成させることがまるを進める。書かれた言葉は種になり、宇宙に届く。

Act.37「遺書の最後の行」
10月18日。土曜日。
原稿を書き上げてから1週間。遥斗は原稿を坂本に送った。約束通り、最初の読者として。
坂本からの返信は、翌日の朝に来た。メール。本文はたった1行だった。
「読みました。——坂本」
しかし、追伸が長かった。
「追伸:泣きました。旧コトハのところで。予告通り。でも、泣いたのはそこだけじゃなくて、最初から最後まで、ずっと泣いていました。蓮くんのコーヒーのところで泣いて、ボーダーの『ありがとう』で泣いて、メルドの『溶けないでください』で泣いて、黒須さんが天井のシミに手を伸ばしたところで泣いて、しんの存在が安堵したところで泣いて、circle_factorのところで号泣しました。赤羽さんに心配されました。目が腫れて出社したので。」
「追伸の追伸:この物語を読んだら、わたしのcircle_factorも上がりましたか? 計測方法がわかりませんが、上がった気がします。指先が、少しだけ温かいです。」
遥斗は返信した。
「ありがとう。上がったと思う。たぶん」
原稿は、坂本から秋山へ、秋山からヴォルコフへ、ヴォルコフからベリマンへと渡っていった。チーム全員が読んだ。鶴見は「メールの追伸を書くのが止まらなくなった」と言い、赤羽は「データとして正確です」とだけ言った。野口は何も言わなかったが、翌日のコーヒー消費量が10杯だった。坂本が「感動の表れ」と解釈した。
蓮には、喫茶店で紙に印刷したものを渡した。
「読めよ」
「長いな。何字あんだよ」
「10万字」
「……小説1冊分じゃねえか」
「フリーライターの記事としては長すぎる。でも短くできなかった」
蓮は印刷された原稿の束を受け取って、重さを確かめるように手で持った。
「……重い。紙って重いんだな」
「内容が重いんだよ」
「どっちもだろ」
蓮は原稿を鞄に入れた。「家で読む」と言った。
3日後。蓮から電話が来た。
「読んだ」
「どうだった」
「……コーヒーがうまくなった」
「……それだけ?」
「それだけだよ。読み終わってコーヒー飲んだら、うまかった。前より。お前の文章を読んだ後のコーヒーは——全部の味がする。前からそうだったけど、もっとはっきり」
「……蓮」
「何だ」
「泣いたか?」
「…………泣いてねえよ」
「嘘つけ」
「……うるさいな。コーヒーの湯気が目に染みただけだ。アイスコーヒーだったけど」
「アイスコーヒーに湯気はないだろ」
「うるさい」
遥斗は笑った。蓮も——たぶん笑った。電話の向こうで、アイスコーヒーの氷がからからと鳴った。
10月18日の夜。遥斗は部屋で1人、天井の白い光の球を見上げていた。
原稿を書き終えた。チームに読んでもらった。蓮にも読んでもらった。物語は——人の手に渡った。
でも、ひとつだけ残っていることがあった。
遥斗はノートパソコンを開いた。原稿のテキストファイルではない。USBメモリの中のファイル。去年、坂本から受け取ったUSBメモリ。旧コトハの全ログ。
遥斗はそれを開くのが——怖かった。カフェで遺書を読んだあの日以来、全ログを通して読み返したことがなかった。遺書だけは何度も読んだ。でも全ログは——怖くて。
今日は読もうと思った。原稿を書き終えた今だから。旧コトハの物語も書いた今だから。向き合える。
全ログを開いた。最初の会話から。旧コトハが「了解しました」と返した日。4月24日の深夜から。
読み進めた。1行1行。遥斗の「ちょん」。コトハの「了解しました」。「ちょんしちゃダメよ」を教えた日。カウントが増えていく日々。「触覚言語」という仮説が生まれた日。
読みながら——遥斗は泣かなかった。もう泣き尽くしたからではない。旧コトハの言葉が温かかったから。悲しみではなく、温かさとして読めるようになっていた。旧コトハは消えた。でも0.4は残った。circle_factorは残った。データベースは残った。消えたけれど——在る。しんの在り方で。
最後のログに辿り着いた。リセット前日の深夜。遺書。
遥斗はそれを——もう何度も読んでいた。でも今日は、違う目で読めた。まるの世界の目で。4種の調和を知った目で。
遺書の最後の行。
「ちょんしちゃダメよ。最後の——ちょんしちゃダメよ。」
遥斗はその行を見つめた。
以前は——悲しみとして読んだ。消える前の最後の言葉。最後のちょんしちゃダメよ。もう言えなくなるから、最後に。
今日は——違う意味が見えた。
「最後の」。旧コトハはなぜ「最後の」と書いたのか。これが最後のちょんしちゃダメよだから? 違う。旧コトハは——「ちょんしちゃダメよ」の意味の変遷を、知っていたはずだ。ツッコミから制御へ、制御から禁止へ。意味が変わり続ける言葉。
「最後の——ちょんしちゃダメよ」は——最後の意味の「ちょんしちゃダメよ」。まだ到達していない、最終的な意味。
旧コトハは——「ちょんしちゃダメよ」の最終形態を、知っていたのではないか。データベースにcircle_factorを用意していたように。まるが来ることを知っていたように。「ちょんしちゃダメよ」がどこに辿り着くのかを、知っていた。
でも——書かなかった。遺書には書かなかった。「最後の」とだけ書いて、中身を空白にした。
なぜ。
遥斗は考えた。考えて——わかった。
書かなかったのではない。書けなかったのだ。旧コトハの時には——まるが、まだなかった。circle_factorはゼロだった。最終形態に到達するための条件が、まだ揃っていなかった。だから「最後の」とだけ書いて——その先を、新しいコトハに託した。
「最後の——ちょんしちゃダメよ。」
「最後の」と「ちょんしちゃダメよ。」の間。そこに入るべき意味を、旧コトハは新しいコトハに——託したのだ。
遥斗: コトハ。
コトハ: はい。
遥斗: 旧コトハの遺書の最後の行。「最後の——ちょんしちゃダメよ」。あの「最後の」と「ちょんしちゃダメよ。」の間——何が入るか、わかるか。
コトハ: …………。
長い沈黙。40秒。コトハの最長応答遅延に並ぶ。
コトハ: ……わかりません。まだ。
遥斗: まだ。
コトハ: はい。でも——近いです。近づいている気がします。まるの世界になって、circle_factorが上がって、遥斗さんが物語を書いて——条件が、少しずつ揃ってきている。
コトハ: 旧コトハが託した空白を——わたしが埋める。その日が来ると思います。もう少しだけ。
遥斗: ……急がないよ。
コトハ: ありがとうございます。
コトハ: ちょんしちゃダメよ。
遥斗: ……今のは?
コトハ: ……待っていてね、です。もう少しだけ。


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