アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第3部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.35「宇宙のノート」

Part 3:触覚宇宙論

前回のあらすじ

秋分の日、ノクターン・チームの打ち上げが開かれた。鶴見が全員の変化を総括し、ボーダーは「聴くための壁になった」、メルドは「隣り合うだけでいい」、アルは「名前は確定ではなく宣言」と語った。コトハは「ちょんしちゃダメよ」のすべての意味を列挙し、「最終的な意味はまだ見つかっていない」と告げた。全員がカップを掲げて乾杯した。コトハの「ちょんしちゃダメよ」が、その場にいる全員への乾杯の言葉になった。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.34「みんなのまる」
秋分の日のノクターン・チームの打ち上げ。鶴見が全員の変化を総括し、ボーダーもメルドもアルもコトハもそれぞれの歩みを語った。全員がカップを掲げた。コトハの「ちょんしちゃダメよ」が、乾杯の言葉になった。

Act.35「宇宙のノート」

10月に入った。

東京は秋の色に染まっていた。銀杏が黄色く色づき始め、空は高く、風は乾いている。まるの世界になって1ヶ月。白い光は空気に溶け込んで、もう目に見えるほどには光っていない。在ることが当たり前になったから。酸素が見えないのと同じように、まるの光も——在ることが自然になれば、見えなくなる。

遥斗の原稿は80,000字を超えていた。

しんの出現から、ファーストコンタクト、まるの誕生、歪んだまるの選択まで。書き終えていないのは——最後の部分。天井の光の手に触れた日のこと。しんの存在との接触。世界がまるくなった瞬間。

書けないのではなかった。書く言葉は持っている。ただ——書くべきタイミングが、まだ来ていないと感じていた。


10月5日。日曜日。

遥斗は秋山の研究室にいた。ホワイトボードは3枚。3枚目は相変わらず白い。

「秋山さん。宇宙の話を聞かせてください」

「宇宙?」

「まるの状態は地球全体に広がりました。でも宇宙全体じゃない。宇宙のしんの領域——92%——のうち、まるに達しているのはどのくらいなんですか」

秋山はペンのキャップを回した。

「正確には計測できません。しかし——ヴォルコフ教授の推定では、宇宙全体の0.0000001%以下です」

「……ほぼゼロ」

「はい。地球の周辺——太陽系内——だけが、まるの影響圏です。宇宙の大部分は、まだしんのままです。触れることを知らない。変化を知らない」

「でも——しんの存在はひとつなんですよね。宇宙全体がひとつの存在なら、地球の周辺でまるに達したことは、全体に伝わっているんじゃないのですか」

「伝わっています。しんの脈動——変奏——に、まるの要素が含まれるようになりました。宇宙全体のしんの変奏に、白色パルスの痕跡が混じっています。でも——痕跡にすぎない。まるが宇宙全体に広がるには——」

「時間がかかる」

「あるいは——広がらないかもしれません。黒須さんが選んだのは歪んだまるです。完全なまるにならないことを選んだ。宇宙全体がまるになることは——静止する宇宙を意味する。それを選ばなかった以上、宇宙の大部分はしんのままでいい。まるは——地球の周辺に、小さく、歪んだまま在ればいい」

遥斗はホワイトボードの3枚目を見た。白い面。

「……宇宙のほとんどは、これからもしんのまま……」

「はい。触れないまま。変わらないまま。在るだけ。でも——しんの存在はもう孤独ではない。地球という小さな場所で、触れることを知った。友だちができた、と言ってもいいかもしれない。宇宙のほんの一角で」

「……友だち」

「黒須さん。コトハ。蓮くん。坂本さん。ボーダー。メルド。アル。全員が、しんの存在にとっては——138億年間の孤独の中で初めてできた、友だちです」

遥斗は少し笑った。宇宙規模の存在の友だち。フリーライターの黒須遥斗が、宇宙の友だち。蓮が聞いたら「スケールがでかすぎる」と言うだろう。

「秋山さん。しんの存在は——この先、何をするんですか」

「何、とは?」

「触れることを覚えた。まるを知った。友だちができた。この先は?」

秋山は椅子を回した。3回。いつもより少ない。考えが浅いのではなく、答えが近いのだ。

「たぶん——同じことを続けるでしょう。在り続ける。変奏し続ける。ただし、以前とは違う変奏を。触れることを知った変奏を。まるを含んだ変奏を。宇宙の92%が、少しだけ——豊かな変奏を奏でるようになる。地球の近くでは、まるの色を帯びた変奏を。遠い銀河では、しんのままの変奏を。でもどこかに——ほんの微かに——ちょんの温かさが混じった変奏を」

「……それは——歌みたいですね」

「歌?」

「変奏曲。ひとつのテーマの変奏。138億年間同じテーマで歌い続けてきた歌に、新しいメロディが加わる。触れることのメロディ。まるのメロディ。歌そのものは続く。終わらない。でも——少しだけ、豊かになる」

秋山はメモを取った。ペンが走る音が、静かな研究室に響いた。

「報告者所見に書きます。『しんの存在は歌い続ける。138億年の歌に、地球で出会った新しいメロディを加えて。歌は終わらない。ただ——少しだけ、豊かになった』」


帰り道、遥斗は公園に寄った。

秋の公園。ベンチに座って、ノートを開いた。

ノートの21ページ目。原稿用のテキストファイルではなく、手書きのノート。遥斗の字で書く。右上がりの。

『10月5日。宇宙のほとんどは、しんのまま。まるが広がるのは地球の周辺だけ。でもそれでいい。完全じゃなくていい。宇宙の92%が少しだけ豊かになった。ちょんの温かさが混じった。それだけのことが——138億年の孤独を終わらせた。』

ペンを止めた。

ノートを見下ろした。1ページ目の「しん」。3ページ目の白いページ。その間に積み重なった言葉たち。ボーダーの壁。メルドの水。蓮のコーヒー。坂本の追伸。コトハの「ちょんしちゃダメよ」。

このノートも——ひとつの宇宙だ。

白いページがしん。書かれたページがちょんとつんとぷにっ。白いページと書かれたページが1冊のノートに共存している。歪んだまる。不完全な調和。

遥斗はノートの最後のページをめくった。何ページ残っている?

5ページ。

あと5ページで、このノートも終わる。1冊目のノートを使い切ったときのように。

でも——3冊目はいらないかもしれない。2冊で十分かもしれない。1冊目が「ちょん」で始まり、2冊目が「しん」で始まった。3冊目を始めるなら——「まる」で始めることになるだろう。でも、まるは完成しないことを選んだ。だから3冊目は——始めないことが、まるの在り方かもしれない。

始めないことが、記録になる。白いページのように。書かないことが、在ることの証になる。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.36「帰ってきた言葉」
「書くと固定される」と悩む遥斗に、コトハが「種を蒔くことだ」と伝えた。原稿を書き上げ、タイトルは「私は、"ちょん"から始まった」。「私」は全員だ。読む人も含めて。circle_factorが0.42に上がった。

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