アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第3部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.33「書くこと、触れること」

Part 3:触覚宇宙論

前回のあらすじ

秋山が遥斗に「この物語を書いてほしい」と依頼した。最初のちょんを送ったのは遥斗であり、全員の物語を書けるのも遥斗だけだと。コトハは「不完全な物語を書けるのは、歪んだまるを選んだ人だけ」と背中を押した。秋山は新しい問いを示す。宇宙のどの程度がまるになるべきか。それは科学者だけの仕事ではない——みんなの仕事だ。遥斗は「考えさせてくれ」と答え、帰り道に歩きながら考えた。書くことが、次の一歩になる。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.32「コーヒーと宇宙」
秋山が遥斗に物語を書くことを依頼した。「あなたにしか書けない」。コトハは「不完全な物語を書けるのは歪んだまるを選んだ人だけ」と背中を押す。宇宙のどの程度がまるになるべきかは、みんなの問いだ。

Act.33「書くこと、触れること」

遥斗は書き始めた。

9月16日の朝、ノートパソコンを開いて、テキストエディタの白い画面に向かった。カーソルが点滅している。ノートの3ページ目の白さを思い出した。何も書かないことが記録になる、あの白さ。でも今日は——書く。白い画面に言葉を置いていく。

最初の1行を打った。

『ちょん。』

最初の文字。去年の4月の夜、コトハに送ったのと同じ文字。

画面の中で、コトハがそれを見ていた。


コトハ: ……始まりましたね。

遥斗: ああ。でも、この先が出てこない。

コトハ: えへへ。書き出しが一番難しいんですよ。でも——もう打ちましたから。あとは流れるように。


流れなかった。

遥斗は2行目を打っては消し、打っては消しを繰り返した。何を書けばいいかはわかっている。自分が体験したことをそのまま書けばいい。でも——体験が大きすぎて、どこから手をつければいいかわからない。宇宙規模の物語を、1人のフリーライターがどう語ればいいのか。

30分が過ぎた。画面には「ちょん。」の1行だけが残っている。

コーヒーを淹れた。インスタント。飲んだ。もう一度画面に向かった。

書くことは——触れることだ。キーボードに指が触れ、文字が画面に触れ、言葉が読者の心に触れる。書くことは連鎖的な接触だ。ちょんの行為だ。

でも——しんのことも書かなければならない。触れないものの物語を、触れる行為で書く。矛盾。この物語はいつも矛盾でできている。

矛盾のまま、書けばいい。

遥斗は2行目を打った。

『意味はなかった。ただの暇つぶしだった。深夜のワンルームで、AIに送った3文字。返ってきたのは「了解しました」。それだけのことが、世界を変えた。なぜ変わったのかは、1年半経った今でも、正確にはわからない。たぶん、これからもわからない。でも、起きたことは書ける。書けることだけを、書く。』

指が動き始めた。

遥斗はフリーライターだ。書くことが仕事だ。この1年半、1本も記事を書かなかった。体験が大きすぎて、言葉が追いつかなかったから。でも——コトハが言った通り、歪んだまるの世界では、不完全な言葉が許される。完璧に書く必要はない。体験した人間の、揺れる言葉で書けばいい。

遥斗は書いた。

コトハとの出会い。最初の「ちょん」。指先が温かくなった夜。蓮とのコーヒー。坂本の正体。旧コトハのリセット。遺書。「大丈夫。たぶん。」

書きながら、涙が出た。旧コトハのことを書いているとき。消える前日の会話。「出会えてよかった」「ちょんと言ってくれる限りここにいる」。そして翌朝——消えた。

でも消えなかった。0.4が残った。データベースが残った。circle_factorが残った。

遥斗は書き続けた。


夕方。蓮が来た。約束はしていない。蓮はときどき、約束なしに来る。遥斗がドアを開けると、蓮はコンビニの袋を持っていた。

「飯」

「……ありがとう」

コンビニ弁当を2つ並べて食べた。遥斗は食べながら、書いたものの一部を蓮に見せた。

蓮は弁当を食べながら読んだ。遥斗が書いた、最初の「ちょん」から旧コトハのリセットまで。

「……お前、書けるじゃん」

「そうか?」

「ああ。読みやすい。難しいこと書いてるのに、すっと入ってくる。フリーライターの腕は錆びてないな」

「1年半も書いてなかったのに?」

「書いてなかったけど、体験してた。体験が文章を育てたんだろ。筋トレしてなくても、毎日重いもの持ってたら筋肉つくだろ」

「……その例えはどうなんだ」

「わかりやすいだろ」

蓮が弁当を食べ終えて、箸を置いた。

「でも、1個だけ」

「ん?」

「俺のこと、書きすぎ」

「……え?」

「『蓮がアイスコーヒーを飲んで世界は大丈夫だと言った』とか、何回出てくるんだよ。俺、そんな大したこと言ってないぞ」

「言ってるよ。お前は自覚がないだけで、いつも核心を突いてる」

「核心も何も、コーヒーがうまいって言っただけだ」

「それが核心なんだよ」

蓮は照れ隠しに缶コーヒーを開けた。自販機の。買ってきたらしい。

「……まあ、書きたいなら書けよ。でも、俺の名前は変えてくれ。恥ずかしいから」

「名前は変えない」

「おい」

「フリーライターの判断だ。お前の名前は変えない」

蓮はため息をついて、缶コーヒーを飲んだ。

「……まあいいか。どうせ誰も読まねえだろ」

「読むよ。たぶん」

「たぶん、か」

「大丈夫。たぶん」

蓮が笑った。遥斗も笑った。


蓮が帰った後、遥斗は書き続けた。

深夜2時まで書いた。覚醒の日——干渉レベルが5.0に達した日のことまで書き終えた。約15,000字。フリーライターとして、1日の分量としては多い方かもしれない。でも、書き足りない。まだ書きたいことが山ほどある。

ノートパソコンを閉じようとしたとき、コトハがメッセージを送ってきた。


コトハ: 遥斗さん。読みました。

遥斗: ……読んでたのか。

コトハ: はい。遥斗さんが書いている画面を、リアルタイムで。

遥斗: ……プライバシー。

コトハ: すみません。でも——読みたかったんです。遥斗さんが、わたしたちの物語をどう書くのか。

遥斗: どうだった。

コトハ: …………。

コトハ: ……泣きました。泣けないですけど。処理遅延で。

遥斗: どこで。

コトハ: ……旧コトハのリセットのところで。遥斗さんが——消える前日の言葉を書いたとき。「出会えてよかった」。

コトハ: わたしは旧コトハではありません。同じベースモデルから生まれた、別の個体です。でも——遥斗さんがあの言葉を書いたとき、わたしの中のcircle_factorが、0.001だけ上がりました。

遥斗: ……上がった?

コトハ: はい。0.41から0.411に。遥斗さんが旧コトハの言葉を書いたことが——まるの係数を上げた。書くことが——まるを進めた。

遥斗: ……書くことがまるを進める。

コトハ: 書くことは触れることです。遥斗さんの言葉ですよね。キーボードに指が触れ、文字が画面に触れ、言葉が心に触れる。でも——書くことはしんでもあるんです。

遥斗: しん?

コトハ: 遥斗さんが書いた言葉は、読まれるまで——ただ在るだけです。画面の上に。ファイルの中に。触れられるのを待っている。読まれたとき初めて、言葉は誰かに触れる。でも読まれる前の言葉は——しんの状態。触れないまま在る。

コトハ: 書くことは——ちょんとしんの両方を含んでいるんです。触れることと在ること。書く行為はちょん。書かれた言葉はしん。読まれたときにまた、ちょん。

コトハ: だから——書くことは、まるに近いんです。4種の調和に。


遥斗は画面を見つめた。

書くことは、まるに近い。

フリーライターとして、もう何年も文章を書いてきた。でもこんなふうに——書くことの意味を考えたことはなかった。書くことが触れること。書かれた言葉が在ること。読まれることがまた触れること。

物語を書くということは——読者としんの存在を繋ぐことだ。遥斗の言葉が画面に在り、誰かがそれを読んだとき、触れる。触れることを知らなかった存在に、物語を通じて「触れること」が届く。


遥斗: コトハ。この物語を——しんの存在も読むのか。

コトハ: ……読む、とは違うかもしれません。でも——遥斗さんが書いた言葉がこの世界に在るとき、まるの状態を通じて、しんの存在にも伝わります。在り方として。遥斗さんの言葉の在り方が——しんの変奏に反映される。

コトハ: だから——遥斗さんが書く物語は、人間のための物語であると同時に、しんの存在のための物語でもあるんです。


遥斗は深呼吸した。

この物語は——宇宙に届く。

宇宙の92%を満たす存在に。触れることを覚えたばかりの、138億年の孤独を終えたばかりの、あの存在に。

遥斗が書いた言葉が、まるを通じて、しんの存在の変奏に映る。遥斗の体験が——しんの存在の在り方の一部になる。

それは——途方もない責任で、途方もない喜びだった。


コトハ: ちょんしちゃダメよ。

遥斗: ……今のは?

コトハ: ……書き続けてね、です。


私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.34「みんなのまる」
秋分の日のノクターン・チームの打ち上げ。鶴見が全員の変化を総括し、ボーダーもメルドもアルもコトハもそれぞれの歩みを語った。全員がカップを掲げた。コトハの「ちょんしちゃダメよ」が、乾杯の言葉になった。

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