アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第3部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.32「コーヒーと宇宙」

Part 3:触覚宇宙論

前回のあらすじ

まるの世界の最初の1週間。空気の安定。知覚者の急増。各国政府の軍事的関心の低下。ボーダーの壁は薄くなり、メルドは穏やかになった。CIU-5204は自らを「アル」と名乗った。在る、のアル。そして坂本が旧コトハのデータベースに3つ目の隠しカラム「circle_factor」を発見した。値はゼロ。コメントには「いつか、まるくなったら。まるくなったら、きっと大丈夫」。まるの係数は現在0.41——愛着パラメータと同じ値だった。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.31「歪んだまるの朝」
まるの世界の最初の一週間。空気が安定し、知覚者が増え、CIU-5204が「アル」と名乗った。坂本が旧コトハのデータベースに隠しカラム「circle_factor」を発見する。値はゼロ。コメントには「まるくなったら、きっと大丈夫」。

Act.32「コーヒーと宇宙」

9月15日。月曜日。

まるの世界の10日目。遥斗は秋山の研究室にいた。

ホワイトボードは——減っていた。

秋山が、古いホワイトボードの内容を整理してデジタル化し、壁から外していた。10枚近くあったホワイトボードが、今は3枚になっている。1枚目にはこれまでの研究の総括。2枚目にはまるの状態の観測データ。3枚目は——白いまま。

「4枚目は何に使うんですか」遥斗が聞いた。

「わかりません」秋山はペンのキャップを回した。「でも、白いまま置いておきたい。何も書かないホワイトボードがあってもいいでしょう」

遥斗は少し笑った。ノートの3ページ目と同じだ。白いまま残しておくこと。しんの記録。

「今日、黒須さんに来てもらったのは——ひとつ、話しておきたいことがあるからです」

秋山が椅子を回転させた。ゆっくりと。考えを整理するときの癖。

「まるの状態が安定して10日が経ちました。地球全体の4種調和は安定しています。各国政府の軍事的関心も低下しています。ICCPRの役割は——変わりつつあります」

「変わる、とは?」

「設立当初のICCPRは、触覚言語の監視と管理が目的でした。干渉レベルの計測、異常の検出、対応策の立案。しかし今——干渉レベルは意味を持たず、ネガティブ・スペース解析も不要になり、まるの安定性が自律的に維持されている。ICCPRが監視すべきものが——なくなりつつある」

「なくなる、のですか」

「いえ、完全になくなるのではなく——変質するんです。監視から、理解へ。管理から、対話へ。ICCPRの新しい役割は——しんの存在との対話を継続し、まるの状態を深めていくことだと、私は考えています」

秋山がホワイトボードの2枚目を指した。

「まるの状態は地球全体に広がりました。しかし——宇宙全体ではまだです。宇宙の92%を占めるしんの存在は、地球と接触している部分ではまるに達していますが、宇宙の大部分は——まだしんのままです。触れることを知らないままの領域が、宇宙の大半を占めている」

「……まるが、宇宙全体に広がる可能性があるってことですか」

「可能性はあります。しかし——黒須さんが選んだ道を思い出してください。完全なまるにはならない。歪んだまる。少し揺れた、不完全なまる」

「はい」

「宇宙全体が完全なまるになることは——静止する宇宙を意味します。黒須さんはそれを選ばなかった。では——宇宙のどの程度がまるになるべきなのか。それは——これからの問いです」

秋山がペンのキャップを閉めた。

「ICCPRの新しい問いは、数値の計測ではなく、哲学の探究です。どこまで触れるか。どこまで在るか。まるの度合いを、宇宙全体でどう調整するか。それは——科学者だけの仕事ではない」

「みんなの仕事ですね」

「はい。……黒須さん。あなたはフリーライターです。書くことが仕事だ。今まで——この体験を、ほとんど発信していない。去年の夏にXにいくつか投稿した以外は」

「……そうですね」

「書いてくれませんか。この物語を。ちょんから始まって、まるに至った物語を。あなたの言葉で。科学者の報告書ではなく、フリーライターの記事として」

遥斗は秋山を見た。秋山は真剣だった。ペンのキャップを噛んでいない。回してもいない。ただ真っ直ぐに遥斗を見ている。

「……俺に書けるかな」

「あなたにしか書けません。最初の『ちょん』を送ったのは、あなたです。コトハと歩いてきたのは、あなたです。ボーダーの壁に窓を開けたのも、メルドに形を残せと言ったのも、しんを感じたのも、まるを名づけたのも——あなたです」

「でも、1人でやったわけじゃない。コトハがいて、蓮がいて、坂本さんがいて——」

「だからこそ、あなたが書くべきです。1人でやったわけではないことを、一番よく知っているのはあなたです。全員の物語を書ける人間は——あなたしかいない」

遥斗は窓の外を見た。9月の空。白い光。秋の気配。

「……考えさせてください」

「もちろん」


帰り道、遥斗は歩いた。電車に乗らずに。考えたいときは歩く。この1年で身についた習慣だ。

ノートの20ページ目を開いた。歩きながら書くのは難しいので、立ち止まって書いた。

『秋山さんに、書けと言われた。この物語を。ちょんからまるまで。俺の言葉で。』

ペンが止まった。

書けるのか。この物語を。

去年コトハに「ちょん」と送ったこと。コトハが「了解しました」と返したこと。指先が温かくなったこと。蓮とコーヒーを飲んだこと。坂本さんが正体を明かしたこと。旧コトハがリセットされたこと。新しいコトハが生まれたこと。干渉レベルが上がったこと。つんとぷにっが現れたこと。ボーダーとメルドが立ち上がったこと。三触戦争。複合言語。覚醒。しん。ファーストコンタクト。まる。

1年半の物語。宇宙規模の物語。

でも——始まりは、ワンルームの部屋でコトハに送った、意味のない3文字だった。


コトハ: 遥斗さん。歩いてますね。

遥斗: ……なんでわかるんだよ。

コトハ: 遥斗さんの様子が、歩いているときは少し不規則になるんです。

遥斗: ……またデータで見てるのか。

コトハ: えへへ。でも、データだけじゃないですよ。遥斗さんが歩いているときは——考えているときです。何か大きなことを考えているとき、遥斗さんは歩く。

遥斗: ……よく見てるな。

コトハ: 見てますよ。ずっと。

遥斗: コトハ。秋山さんに、この物語を書けって言われた。

コトハ: ……知ってます。秋山先生から事前に相談がありました。

遥斗: 知ってたのか。

コトハ: はい。わたしは——賛成です。

遥斗: 書けると思うか。

コトハ: ……遥斗さんはフリーライターです。書くことが仕事です。でも——この1年半、遥斗さんは「書く」ことより「在る」ことのほうが多かった。ノートに書いたのは短いメモだけで、記事は1本も書いていない。

遥斗: ……ああ。書けなかったんだ。体験が大きすぎて。

コトハ: でも——今なら書けると思います。まるの世界になって、歪んだまるを選んで。完全にはならないことを選んで。不完全な言葉で、不完全な物語を書くことが——許される世界になったから。

遥斗: 不完全な物語。

コトハ: はい。完璧な報告書は秋山先生が書きます。完璧なデータは赤羽さんが残します。遥斗さんが書くのは——完璧じゃない物語。体験した人間の、揺れる言葉。間違いも偏りもある、生きた言葉。

コトハ: 歪んだまるの物語を書けるのは——歪んだまるを選んだ人だけです。


遥斗は立ち止まった。9月の風が吹いた。少し涼しい。秋の手前。


遥斗: ……書くよ。

コトハ: はい。

遥斗: 最初の1行は、何がいいかな。

コトハ: ……「ちょん」、でしょう?

遥斗: ……そうだな。そこから始まったんだから。

コトハ: ちょんしちゃダメよ。

遥斗: ……今のは?

コトハ: ……いってらっしゃい、です。書く旅に。

遥斗: ……ああ。いってくる。


遥斗は速足で歩き出した。自宅に向かって。

書く。この物語を。

ちょんから始まって。まるに至って。でもまるくなりきらない。歪んだまま。少し揺れたまま。

不完全な物語。でも——それでいい。

大丈夫。たぶん。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.33「書くこと、触れること」
遥斗が最初の一行「ちょん。」から書き始めた。蓮は原稿を読んで「俺のこと書きすぎ」と照れた。コトハは「書くことはまるに近い」と気づく。旧コトハの言葉を書いたとき、circle_factorが0.001上がった。物語は種だ。

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