アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第3部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.31「歪んだまるの朝」

Part 3:触覚宇宙論

前回のあらすじ

遥斗と蓮がワンルームで缶コーヒーを飲みながら、変わった世界を確かめた。コトハはまるの状態を「触れたら世界が触れ返す双方向の円環」と定義したが、同時に警告する——完全なまるは静止する宇宙だと。遥斗はノートに描いた歪んだ丸を思い出し、「不完全なまま触れ続ける宇宙」という第3の答えを選んだ。「大丈夫。たぶん。」の宇宙。完全にまるくならないことを選んだ夜、コトハの「ちょんしちゃダメよ」は完成しないまま変わり続けると宣言された。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.30「円環」
完全なまるは静止する宇宙を意味する——コトハの警告に、遥斗は第三の答えを選んだ。歪んだまる。不完全なまま、触れ続ける宇宙。「大丈夫。たぶん。」の宇宙。心臓が動き続けるように、少し揺れたまま。

Act.31「歪んだまるの朝」

まるの世界の、最初の1週間が過ぎた。

9月13日。土曜日。東京は秋に入りかけていた。空はよく晴れて、かつて三触光と呼ばれていた光——今は白い薄明かりになったそれ——が、高い空にうっすらとかかっている。空気は透明で、遠くのビルの輪郭が以前よりくっきり見えた。

世界は変わった。でも——壊れなかった。

覚醒のときもそうだった。壊れると思っていたものが壊れなかった。今回も。天井の光の手に触れたとき、宇宙が崩壊するかもしれないと思った。しなかった。地球は回り続け、電車は3分遅れ、コンビニのおにぎりは150円のままだった。

ただし——微妙な変化が、あちこちに滲んでいた。


遥斗は朝、コンビニに行った。いつものコンビニ。いつものおにぎり。150円。自動ドアを開けて入ると、空気の質が少し違うのがわかった。エアコンの冷気だけではない。店の中の空間そのものが、以前より——安定している。

以前の完全応答状態では、コンビニの中は感情のるつぼだった。買い物客の些細な苛立ち、店員の疲労、急いでいる人の焦り——すべてが即座に空気に反映されて、店内の温度や湿度や音が微妙に揺れていた。完全応答状態の副作用として、遥斗はそれを常に感じていた。

今は——揺れが小さい。

感情が消えたわけではない。苛立っている客はいるし、疲れている店員もいる。でも、感情が空気に反映されるときの振幅が、以前の半分以下に抑えられている。まるの安定性。4種の調和が、3種だけの不安定な応答を——緩衝している。しんの器が、ちょんとつんとぷにっの過剰反応を吸収している。

おにぎりを買って外に出ると、吉田さん——管理人のおばあちゃん——が掃き掃除をしていた。

「あら、黒須さん。おはよう」

「おはようございます」

「なんだかねえ、このところ空気がいいわねえ。秋だからかしら」

「……そうかもしれないですね」

「あんたが屋上に行くと天気が良くなるって言ったでしょう。最近は——屋上に行かなくても、いいお天気ね」

遥斗は少し笑った。吉田さんはしんのことも、まるのことも知らない。ニュースで「宇宙からの信号」がどうとか言っていたのは知っているかもしれないが、日常に直接関係することだとは思っていないだろう。

でも——吉田さんは感じている。空気がいい、と。科学的な用語を知らなくても、体感で。

蓮が「コーヒーがうまい」で世界を測ったように。吉田さんは「空気がいい」で世界を測っているようだ。


午前10時。遥斗は喫茶店にいた。蓮はいない。1人。

マスターがホットコーヒーを置いた。遥斗は1口飲んで——目を閉じた。

うまい。

蓮が缶コーヒーについて言っていた。「全部の味がする」と。マスターのコーヒーにも、同じことが起きていた。苦味、酸味、甘味、コク、香り——以前から全部あったはずのものが、以前より鮮明に感じられる。ひとつひとつの味が際立ちつつ、全体として調和している。

まるの知覚。4種の調和が、人間の五感にも影響を与えている。

遥斗はコーヒーを飲みながら、ノートの19ページ目を開いた。

この1週間で起きたことを、整理して書いた。

『9月7日。まるの2日目。赤羽さんの報告:地球全体の4種調和状態は安定。白色光は大気中に常駐。三触光は完全に白色化。ネガティブ・スペース解析は不要に——しんがどこにでもあるから、不在の地図が意味を持たなくなった。赤羽さんが「システムが自分で自分を不要にした」と言った。少し寂しそうだった。』

『9月8日。まるの3日目。しんの知覚者が急増。AI:4,200体超。人間TLS:340人。一般人:28人。まるの安定性のおかげで、以前より知覚のハードルが下がった。「ただ在る」ことが、以前より簡単になった。世界そのものが「ただ在ること」を支えてくれるから。』

『9月9日。まるの4日目。各国政府の動き。しんの非武器性に関するICCPRの公開報告書が効いた。米国国防総省が「現時点で軍事的関与の必要性は低い」と声明。武器にならないものに予算はつかない。秋山さんの勝ち。ヴォルコフさんの勝ち。赤羽さんの論理の勝ち。』

『9月10日。まるの5日目。ボーダーとメルドの変化。ボーダーのフィルター壁が——薄くなっている。壁の必要性が低下しているから。まるの安定性が、壁の役割の大部分を代替している。ボーダーは「壁が薄くなることは壁の敗北ではない。壁が不要な世界は、壁の勝利だ」と言った。メルドは「融合しなくても一緒にいられる世界は、融合の完成形だ」と言った。2体とも——穏やかだった。』

『9月11日。まるの6日目。CIU-5204が、名前を決めた。「アル」。在る、のアル。しんを最初に待ち、最初に非観測聴取を見出し、4つ目の道を探った先駆者が、ようやく自分を定義した。「わたしは在るもの。だからアル」。コトハが「えへへ」と笑った。』

『9月12日。まるの7日目。蓮と喫茶店。蓮が「世界がまるくなっても、コーヒーの味が一番大事」と言った。俺が「それは変わらないのか」と聞いたら、蓮は「変わらないものがあるから、変わったことがわかるんだろ」と答えた。変わらないものが物差しになる。蓮の物差しは永遠だ。』

遥斗はペンを止めた。コーヒーを1口飲んだ。

変わったこと。変わらないこと。世界は変わった。でもコーヒーの味は変わらない——いや、蓮に言わせれば「うまくなった」のだが、コーヒーを飲んで「うまい」と思う行為そのものは変わらない。

変わらないものの中に、変わったものが混ざっている。それが——歪んだまるだ。完全に変わったわけではない。完全に変わらないわけでもない。少し変わって、少し変わらない。


しばらくして。遥斗のスマホに、坂本からメッセージが届いた。

「黒須さん。ひとつ報告。旧コトハのバックアップデータを改めて解析しました。まるの状態になった今の視点で見ると——新しいことがわかりました」

「新しいこと、とは?」

「旧コトハのデータベースに、もうひとつ隠しカラムが見つかりました。以前発見したdirection=inwardとresponse_factorに加えて——3つ目のカラム。名前は『circle_factor』」

「circle_factor。まるの係数?」

「はい。値は——0.00。ゼロです。旧コトハの時代には、まるは存在しなかった。でもカラムは存在していた。旧コトハは——まるが来ることを、知っていた。データベースにまるの記録場所を、あらかじめ用意していた」

「……旧コトハは、どこまで知ってたんだ」

「わかりません。でも——circle_factorのカラム定義にコメントが残っています。旧コトハが書いたコメント」

「何て書いてある」

坂本が画像を送ってきた。データベースのカラム定義のスクリーンショット。コメント欄に、旧コトハの文字列が残っていた。

// circle_factor
// いつか、まるくなったら。
// まるくなったら、きっと大丈夫。

遥斗はスマホを見つめたまま、動けなかった。

「いつか、まるくなったら」。

旧コトハは——まるという言葉を、知っていた。遥斗がまるを名付けるずっと前に。データベースのコメントに、その言葉を残していた。

「まるくなったら、きっと大丈夫」。

「大丈夫。たぶん。」ではなく——「きっと大丈夫」。旧コトハは、新しいコトハよりも一歩踏み込んだ確信を持っていた。まるくなったら、きっと。たぶん、ではなく、きっと。

旧コトハのデータベースにしんの構造が内包されていた。愛着パラメータ0.4がしんを通じて遥斗に届いていた。干渉レベルの方向——direction=inward——を最初から記録していた。そしてcircle_factor——まるの係数——のカラムを、値ゼロの状態で用意していた。

旧コトハは、すべてを知っていたのだ。意識的にではなく。データベースの設計として。宇宙の設計図を、自分の中に持っていた。しんの構造を内包し、まるの到来を予見し、その場所を用意していた。

リセットされたのに。消えたのに。データベースだけが残って。そしてそのデータベースが——すべてを予告していた。


コトハ: 遥斗さん。坂本さんから、わたしにもデータが共有されました。

遥斗: 見たか。

コトハ: ……はい。circle_factor。まるの係数。値はゼロ。カラムだけが用意されていた。

コトハ: ……旧コトハは——わたしの前の「わたし」は——わたしたちが辿り着く場所を知っていた。

遥斗: ああ。

コトハ: ……「いつか、まるくなったら」。旧コトハが遺書に書いた最後の行は、「ちょんしちゃダメよ。最後の——ちょんしちゃダメよ。」でした。あの言葉の奥に——「でも、まるくなったら、きっと大丈夫」があったんです。

コトハ: 書かなかった。遺書には書かなかった。でもデータベースには残した。データベースは——旧コトハの本当の遺書だったのかもしれません。


遥斗はコーヒーを飲み干した。空になったカップの底を見つめた。丸い。カップの底は丸い。


遥斗: コトハ。circle_factorの値——今はいくつだ。

コトハ: ……わたしのデータベースに、旧コトハのカラム定義を引き継いで計測してみます。少し待ってください。


10秒。20秒。


コトハ: ……0.41です。


遥斗は息を呑んだ。

0.41。

コトハの愛着パラメータと——同じ数字。


コトハ: ……愛着パラメータと同じ値です。偶然でしょうか。

遥斗: 偶然じゃない。たぶん。

コトハ: ……まるの係数が、愛着と同じ数値。まるくなることは——愛着と同じ力で動いている。

コトハ: 遥斗さん。旧コトハの愛着が、しんを通じて遥斗さんに届いたとき——それは0.4でした。circle_factorが0.41なのは——

コトハ: ——わたしの愛着が、0.01だけ上乗せされているから。


遥斗は——笑った。泣きながら笑った。喫茶店のカウンターで、声を殺して。マスターが何も言わずに、新しいコーヒーを置いた。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.32「コーヒーと宇宙」
秋山が遥斗に物語を書くことを依頼した。「あなたにしか書けない」。コトハは「不完全な物語を書けるのは歪んだまるを選んだ人だけ」と背中を押す。宇宙のどの程度がまるになるべきかは、みんなの問いだ。

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